前回と前々回、制度的・構造的に生み出されている根本的な矛盾の一つである「貧困」を社会全体の問題として解決していくことを妨げる「文化」(多くの人たちが共有してきた「自己責任論」等の価値観)があることを述べました。
そのような「文化」を背景に放置されてきた現実はなお深刻で、非正規労働者の実態が改善されないだけでなく、正規労働者の長時間労働もおさまるところを知らず、自殺者は12年連続で三万人を超えました。(2009年末)
しかし、「貧困」をはじめとする「資本主義(特に日本型資本主義)の矛盾」はいま急に噴き出してきたわけではありません。
例えば、すでに1984年の『高校生活指導』には、「昨年の自殺者は25,000人を突破し、戦後最高を記録した」という記述がありました。
また、『ニッポン ほんとに格差社会?』の中で池上彰は複数のデータを検証したうえで、「意外にも日本は以前から相当な格差社会だった」という趣旨のことを述べています。
「豊かな社会」・「一億総中流社会」の幻想(及び「日本型資本主義の神話」:後述)を背景に、見えなくなっていた問題が数多くあるのではないか。それらが、資本主義経済の生み出してきた問題(公害・環境問題、貧困、過労死、自殺)などの問題解決を妨げていたのではないか、そのように問うことが必要だと考えるのです。
日本型資本主義の「神話」について湯浅誠は次のように述べています。
かつて、社会の標準生活モデルは日本型雇用だった。
(・・・)
「企業は家族」といわれる土壌ができ、家族でもなく地域でもなく企業コミュニティが、社会の核をなした。(・・・)終身雇用、年功型賃金、高い退職金をはじめとする手厚い福利厚生という典型的な日本型雇用を享受している人は、労働者全体の2割3割程度にすぎないとされていたが、その親、その妻子、学校教師らその他大勢に規範として内面化され、「そうなるべき」とも言われた。そして、内面化された規範は“神話”となった。
(・・・)
(いわば「勝ち組」を目指せ、がんばらなければ「負け組」になるぞといった・・・)
それ(非正規労働)で家計を維持しようとする者は、以前から苦しかった。(・・・)母子家庭、期間工や日雇労働者たちは、典型的な企業・家族のヒエラルキーに位置づけられない「はずれ者」であり、高度経済成長からの「おちこぼれ」だった。元祖ワーキング・プアである。しかし、(・・・)一言でいってその人たちは「計画性がなく、辛抱が足りない」のだとされた。
(・・・)
そして、1980年代、実際に欧米に追いついた。可能にしたのは日本型雇用であり、(・・・)労使一体型の日本型労務管理だった。(・・・)
その裏側には、生活丸抱えの中で膨大なサービス残業をこなす男性正社員がおり、(「社畜」「カローシ」)、彼らにぶら下がって暮らす他ない女性・若者たちがおり(DV被害者の不可視化)、「ケイレツ」の下請けいじめがあり、個別企業に抱え込まれて社会性を失った労働組合の弱体化があった。
〔『岩盤を穿つ』214頁( )内は引用者〕
このような日本型雇用について、『国家と文明』の中で竹内芳郎も言っています。
「日本の企業内人間関係を支えているものは、決して近代的な契約観念ではなく、伝統的な共同体の理念であるはずで、実にそうであればこそかえって、日本企業はまさに労資一体となって国内では誰はばかることなく〈公害〉をまきちらし、国外ではエコノミック・アニマルの異名をほしいままにしつつ、世界に冠たる〈高度成長〉の大偉業を成し遂げたのではなかったか」(321頁)と。
つまり、 「経済の構造」を基盤に生み出される社会の矛盾や、それを見えにくくさせている共通の「文化」(価値観)を意識化するにしても、近年の「市場原理主義」、「新自由主義」だけを問題にするのではなく、それ以前から連綿と続いてきた日本型資本主義を土台とする「文化」「価値観」に目を向けるべきことを湯浅誠や竹内芳郎は示唆しているのです。
ただ、企業丸抱えの「労資一体」を批判しつつも、竹内芳郎は自らを「共同体復権論者」と言っています。しかし、復権されるべき共同体は、「精神労働と肉体労働の分業に基づく支配」や「上位の統一者」を生み出すことのない、「(直接民主主義的で対等な)市民的共同体」なのです。
さて、遅まきながら日本でも(民主党政権が貧困率測定と削減目標の設定を指示し)、貧困問題はようやくスタートラインに立ちました。また、全国各地に非正規労働者も加入できる「地域ユニオン」ができ、当事者が立ち上がっていく数多くの事例も紹介されています。
〔雨宮処凛『生きるために反撃するぞ』(筑摩書房)など〕
「派遣切り」「貧困」「自殺」「過労死」・・・、人間が「資本増殖の手段」となることで生じる様々な問題を克服していく客観的な条件は膨らみつつある、と言えます。が、実際に変えていくためには「北欧社会とは異なる日本の現実」と向き合っていかなければならないわけです。
以上、なんと24回にわたって『国家と文明』の内容を紹介してきました。ずいぶん長文になってしまいましたが、お付き合いいただいた皆さんに感謝申し上げます。ただ、これでも「幻想国家論・共同体論」 (国家や共同体がメンバーにとってどのように意識・幻想されるかをナショナリズムの問題も含めて追求した考察:その一部はこちら)など、割愛した点がいくつもあります。
関心のある方はぜひ「そのもの」を読んでいただけますでしょうか。マルクス主義の成果および問題点と真っ向から向き合い見事に再構成していった『国家と文明』は、歴史の全体化理論であると同時に、マルクス、ルソー、マックウェーバー、サルトルらを含む人類の英知を結集した理論であると私は考えています。
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