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カテゴリ:教育論・教育問題
前回の記事で私は、「認識」と「実践的な力・姿勢」というのは、一方通行的な関係ではなくダイナミックな「相互関係」にあるのではないか、と述べました。
確かに「認識の深まり」が「実践的な力・姿勢」につながるという筋だけでなく、「実践的な姿勢(立場)の明確化」が「さらなる認識の深まり」につながるという視点は大切であると思われます。 そうだとすれば、認識以外の何が「社会に向かう態度や実践的な姿勢」を形成するのでしょうか。 私が、京都教育大学附属高校における札埜実践「国語としてできること」を(以前の記事で)検討して得た一つの結論は、具体的な他者(具体的経験)と直接・間接に出合い、それに共感することが、現在の様々な問題を「当事者として受け止め考えていく意思」を形成するのではないか、ということです。(詳しくは「東日本大震災を考える授業2」) そのように考えると、具体的な「他者との出会い」を創り出すこと、共同で学び・実践する体験を創りだしていくこと(共有すること)は、「平和で民主的な国家・社会の形成者」となっていくうえで不可欠ではないか、と考えるのです。 さて、以上のような文脈で「学びの共同体」の登場に関しても、その意味をとらえなおすことができるのではないでしょうか。そもそも「学びの共同体」は、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を明確に打ち出していると言えるのです。 佐藤学は次のように述べています。「学びとは対象(教材)との出会いと対話であり、他者(仲間や教師)との出会いと対話であり、自己との出会いと対話である。私たちは他者との協同をとおして、多様な考え方と出会い、対象(教材)との新たな出会いと対話を実現して自らの思考を生み出し吟味することができる」(『学校の挑戦』36頁) これは、「学び」を成立させる条件というだけでなく、「他者と出会い共感する関係の中で自らの姿勢を形成していく意味を持つ」と考えられるのです。 事実、佐藤は「協同的な学びの素晴らしさ」として、「誰とも話ができない緘黙の高志と、極めて英語を不得手とする幸子とのかかわり」を事例として挙げています。 「幸子が疑問文をつくって高志に話しかけてくるたびに、大きくうなずき『うん、うん』とつぶやいて、『その英語で合ってるよ』というメッセージを懸命に送っていた。そのせいだろうか。高志のささやくような声は、幸子だけでなく、数メートル離れて観察している私の耳にも、はっきり届くほどの大きさになっていた。」 「この幸子と高志の学び合う姿を見て、いったい誰が、高志が緘黙でもう何年も学校で口を開いたことのない生徒だと思うだろうか。そしていったい誰が、幸子が英語に関して極端な低学力の生徒で、たった30分前まで、人称代名詞とbe動詞との対応さえもまったく理解していなかった生徒であると思うだろうか。」 「目前で進行している高志と幸子の学びあう関わり合いが、互いの強さではなく互いの弱さによってつながっていることに気づいて、私はいっそう感動の思いを深くした。」 「幸子がこれほど必死で英語に取り組んだのは、高志が緘黙で人と会話ができないという弱さを何とか自分の力で支えたいと願ったからである。そして高志が幸子の問いかけにささやくような声で応えたのは、幸子の精一杯の行為に何とか応じようと思ったからである。」 「それだけではなかった。高志が精一杯の誠意で幸子の問いかけに応えたのは、英語を大の苦手とする幸子がたどたどしく学ぶ姿を見て、高志のほうも精一杯の行為で励ましたいと思ったからである。この互いの行為の交換という『互恵的な関係』が、この二人の協同的な学びを生み出したのである。」(『学校の挑戦』32~35頁) 正直なところ、初めてこの部分を読んだとき私は、授業の本質(例えば一つの問題について一緒に考えて意見を交換することで新たな視点を獲得したり認識を深めていく)とズレた事例ではないか、といった違和感を持ちました。 しかしながら、そもそも「学びの共同体」が、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を持っていることを考えれば十分理解できると考え直したのです。 上記の事例の中に生活指導の立場(生活が子どもたちを指導する=子どもたちは具体的生活や人間関係を通して成長していくという立場)との共通点、子どもたちの相互関係に注目した「集団づくり」との共通点を感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。 そして、このような「関わりあいの体験」から得られるものが、「競争に勝つためには友達でも利用するという姿勢」や「現代の貧困にあえぎ、自殺すれすれの精神生活を送っている人たちを自己責任のもとに切り捨てる姿勢」とは対極のものであることも、大方の合意が得られるのではないでしょうか。 学びが、「習熟」に到達するためには「実践的な関心」(これは自分たちの問題だという当事者意識を持って現状認識に努め、実践的に問題解決を目指していくこと)が大切であり、そのためにこそ様々な「出会い」が大きな意味を持つと思われます。人との出会い、具体的経験(生き方)との出会いに触発されながら、私たちは自分自身の生き方を深く考えるのではないでしょうか。 21世紀においてとりわけ大切だと考えられる「環境・人権などの問題」への取り組みにおいては(身近な「特別支援教育」一つをとってみても)、様々な他者を理解しようと努めながら関わり合いつながっていく「集団づくり」の観点を欠かすことはできない、と考えるのです。 (教育問題に関する特集も含めてHP"しょう"のページに・・・) (アメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。 『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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