日々是が学び
悟りに少しでも近づきたいと、いろんな質問をして来る人に、落ち付ける環境が無いと学べないとおっしゃる人が居て、本当にそうなんでしょうか?それはただのいい訳では無いんでしょうかと返すと、ラッキーさんはどんな環境でその知識を身につけたんですかと、おっしゃるんです。ラッキーさんの知識は振り返って見ると、日々の日常がすべて学びだった事が解りました。仏教の勉強をしたことも無い、心理学や自然科学などの勉強をしたことも無いし、静かな家庭環境でも無かった。ただ、ラッキーが一般的な人と違うのは、自分の好きなこと、好きな様に生きて来たことは、一般的な人とは生き方が違うかも知れませんと言うことだけで、日々の暮らしがすべて学びの為の教材だったと言うことです。そして好きな様に生きて来られる条件がそろって居たと言うことでは無く、A型人間の様に、先の見通しを計算していたとしたら不可能な条件ばかりだったと思います。そんな条件の中で好きな様に、生きたい様に生きて来られたことで、大きな気づきに繋がった事は事実で、その気づきをラッキー/ありがとう日記に綴って居る言うことです。 学びの場、修行の場は己の心の中にあるものだから、場所や条件や環境は関係ないんです。国家資格の中でも、かなり難しいとされている司法試験に会社勤めをしながら行き帰りの電車の中だけで勉強して受かったと言う人も居ますし、携帯電話のメモ機能やメール機能だけを使って小説を書いて、新人賞を取ったと言う人もいると聞きます。条件が自分には不利だと言うことを言い訳にやりたい事を諦める人も居る。「それはそれで、それぞれの人のそれが今生での流れなんだからそれでいいんです」が、悟りに近づく学びの場は日々是すへで自分の為の学びの場だと言うことを肝に銘じて居て貰いたい。そしてそれ以上の学びの場はこの世には無く、自分自身が生れて来る前に設定したシナリオ通りに物事が進展して行きます。この世が迷路になる条件は情報過多にあり、己に不必要な情報まで見聞きすることで不安を拡大し闇に迷う羽目に成っているんです。情報過多は転ばぬ先の杖には成らないことを言って置きます。自分が考える事は、自分の目の前にある現像にどの様に対応したら、穏やかに物事が流れて行くのかだけです。それはやはり水の如しに現像に合わせて自分が受け入れて行くと言うことに優る方向は無いと言うのがラッキーの悟りで、仏教では対機説法と言う言葉があり、相手に寄って法の説き方が異なると言うことなんですが、聞く耳を持たない人や、法を説いても理解が出来ない人だと、説く方が疲れるだけで、この事について、はお釈迦様もアゴをだし投げ出した時期があると聞きます。それでも先生に成りたい人が多いのも事実で、ありがとう日記にも沢山の講釈師の卵が出入りして、話しを熊手で集めては立ち去って居ますが、中々自分のものにするのは難しいと思います。あなたの幸せと健康を祈ります(^^)v【ラッキーの一言】人のフンドシで相撲取るより相撲を見る方が学べるぜ。ラッキーでした(^O^)/