テーマ:京都。(6081)
カテゴリ:京都研究
【2018年1月4日(木)】
去年誕生した孫2人を我が家の車に乗せるためのチャイルドシートを買い求めた後(こちら)、天気も何とか持ちこたえてくれそうだったので、特別客員研究員のフィールドワークの2回目に出かけました。この前(昨年12月11日)は伏見稲荷の南側の「お滝」をいくつか回りましたが(こちら)、今日は北側から始めて、可能な限り「お滝」を回る心積もりで出かけました。結果として下記の地図ルートを時計回りに回りました。 ![]() JR稲荷駅で降車して、伏見稲荷大社で初詣した後、伏見稲荷の北側に回り込みました。雨がけっこう降ってきたので、どこも寄らずに帰ろうかなとも考えたのですが、ガイドの仕事が始まってしまうとなかなか来られなくなるし、雨も酷くなりそうにはなかったので続行しました。最初は地図を見ずに行ったので、北に行き過ぎましたが、地図を取り出してルート修正。分かれ道で「権太夫の滝」「荒木の滝」の道標を発見。新しい道標が、これら「お滝」が現役で活躍していることを物語っています。 ![]() 最初の目的地「権太夫の滝」(ルート図の<1>)に到着。ここは3年前に最祖に訪れたとき、宮司さんから伏見稲荷の周辺には20近い「お滝」があると教えていただいたところです(こちら)。それがきっかけで興味を持ち、その後ほぼ全部の「お滝」を巡りました。そのことが今回の研究に繋がっています。いわば研究のルーツになった場所です。 ![]() 研究員の名刺を持ってくるのを忘れてしまいました。またあの宮司さんにお会いできれば、研究のためのお話を色々お聞きすることができます。そのためにも名刺は携帯すべきでした。 3年ぶりの訪問です。「お滝」への道は、扉が閉まっていて、「社務所にお声掛けください。」とあります。社務所に入ると、年配の女性の方が出てこられました。3年前にお会いした宮司さんの奥さまかもしれません。「お滝」への扉を開けていただいて「お滝」を見学させていただきました。水が勢いよく流れていました。少々質問させていただきました。 ![]() 分かったこと、 ・ここの創建は大正元年 ・今も、滝行をする方はいらっしゃる。一般の方。 ・滝行の代金は決まっておらず「志」。滝行の衣装は貸していただくことも可能。 「お塚」や鳥居に刻まれた年号の一番古い物を確認しましたが、私が発見した中では、大正2年が最も古かったです。管理人の方のが大正元年創立とおっしゃってのと、ほぼ合致します。 ![]() ![]() 東に進みます。大正14年の吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(以下「図絵」)では、現存する「荒木の滝」の間に「ねざめの滝」というのが描かれていますが、その痕跡がないかどうか探索しました。 「伏見稲荷全境内名所図絵」の該当部分 ![]() ありました、ありました。「荒木の滝」の手前に隣接した一般の住居のような家の敷地内に「お塚」があり、昔「お滝」だったような池もありました。「図絵」でも、「荒木の滝」の西隣に描かれています。不確かですが、これが「めざめの滝」の痕跡と思われます。門は開けらたままで、中に入ることはできそうです。「お滝」は止めても、「お塚」はお参りに来る人もいるので、入れるようにしておかなければならないのかもしれません。 「ねざめの滝」の痕跡と思われる ![]() 東に進むと「荒木の滝」があります(ルート図の<2>)。ここも「権太夫の滝」同様、管理人が居住し、滝の水流もしっかり流れていました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 最も古い年代の字彫を探しましたが、探した範囲では昭和16年と比較的新しい年代でした。しかし、前出の大正14年に描かれた「絵図」には載っているので、少なくとも大正14年には存在していたと思われます。 昭和16年の字彫刻(左端) ![]() ![]() 吉本興業の字彫があるお塚を発見しました。 ![]() 「荒木の滝」の北隣には、前出の「絵図」の赤の楕円内にある池の痕跡も確認することができました。今は荒れ地になっています(残念ながら写真を撮るのを怠りました)。ここに溜めた水を落差を利用して「荒木」、「ねざめ」、「権太夫」の各「お滝」に流していたのではないかと思います。 さらに北に進み、三之橋川沿いの「お滝」である「御壺の滝」と「五社の滝」に向かいます。三之橋川はより下流に行くと、東福寺の通天橋の下を流れます。これらの「お滝」を訪れるのは初めてです。「荒木の滝」から北上して直行する道はかなりややこしいですが、過去二度ほど近辺を歩いたことがあるので迷わず到達することができました。 より上流にあるのが「御壺の滝」です(ルート図の<3>)。荒れ果てています。 ![]() ![]() ![]() これが滝の跡だと思います。小さな滝壺状になっているので「御壺の滝」と呼ばれているのだと思います。ここの「お滝」は自然の水流を利用していたうようです。 ![]() 「白髭の滝」の石柱。「御壺の滝」というのがこの「お塚場」の名前で、滝の名前は「白髭の滝」ということなのかもしれません。 ![]() 管理人の住宅はありますが、住んでいる気配はありません。荒れ果てています。 ![]() 古い字彫を探すと、大正2年、4年、6年などが見つかりました。 ![]() ![]() ![]() 昭和31年の字彫 ![]() 平成30年(今年)の記入がある鳥居。管理がされていなくても、熱心な信者の方はお参りをきちんとされているようです。 ![]() 少し下流に「五社の滝」があります(ルート図の<4>)。管理人が住んでおり、管理も行き届いています。今回始めて訪れましたが、伏見稲荷周辺のお滝で最も管理が行き届いた「お滝」ではないかと思います。私が訪れたときも、年配の女性が掃除をしておられました。 ![]() お滝も立派です。さきほどの「御壺の滝」の流れの下流にあり、ここもポンプで揚げたりすることなく、自然の水流を利用しているようです。 ![]() ![]() 最も古い字彫を探しました。私が見つけた中では「大正5年」の字彫が最も古かったです。 ![]() 掃除をしておられた管理人の女性にインタビューをして分かったこと、 ・創建は100年ほど前か?(100年前は1917年=大正6年。最古の字彫とほぼ一致) ・今も「お滝」の利用はある。修行をされる方が利用。 ・滝行の料金は志納 ・滝行をされる場合、衣装は自分で用意していただくとありがたい。 腰に着ける白い布1枚で、腰に巻きつける紐を両端に付けるだけでよい。 この布を腰に着けるだけで、あとはスッポンポン。 ・滝行の経験がないと単独でするのは危険。管理人がそばについて指導する。 今は冬場なので、暖かくなってからのほうがよい。 ・上流の「お滝」は「御壺の滝」。無住になっている。廃業して10年くらいか。 「図絵」では「御壺の滝」と「五社の滝」は、下図の赤色の楕円部分です。「御壺の滝」が下流、「五社の滝」が上流になっており、実際と逆です。「図絵」の中の別の概略図では「五社の滝」が下流になっているので、単純な間違いだと思われます。 ![]() 川沿いに坂道を上って「白滝」(ルート図の<5>)に到着します。今まで書いてきた「お滝」は伏見稲荷の境外、すなわち私有地にあったものですが、ここは伏見稲荷の境内地です。 ![]() 管理人がいらっしゃいました。住居ではなく、昼間だけ詰められているのだと思われます。伏見稲荷の公式の「お滝」である旨の表示は発見できませんでした。滝の水流は勢いよく流れており、蛇の形をした滝口になっています。 ![]() ![]() ![]() 一番古い字彫は探した範囲では、最初鳥居に見つけた大正7年でしたが、石柱に明治43年の字彫を発見しました。前回も含め最古の字彫です。ただし、明治45年=大正元年ですから、今まで見てきた「お滝」も最古字彫に比べ、大幅に前の時代といくわけではありません。 ![]() ![]() もう一度坂を下り、分かれ道に戻り、東側の谷筋の道を上ります。「清滝」に到着します(ルート図の<6>)。ここも伏見稲荷大社の境内地で、管理事務所があり、ここには「伏見稲荷清瀧勤番所」と書いた看板が掲げられています。しかし、その下に写真のように「御用の方は御膳谷奉拝所にお越しください」との平成11年に書かれたプレートが置かれています。利用者がやはり減っているのでしょう。 ![]() ![]() ![]() 滝は2筋流れており、お塚全体もしっかりと整備されていました。 ![]() ![]() 古い字彫としては、大正2年、大正3年が発見できました。 ![]() ![]() ![]() ![]() まだ、フィールドワークができていない「お滝」が数か所残っていますが、暗くなり始めたので、今日の「お滝」訪問はここで切り上げ、御膳谷奉拝所まで上がりました。 お山巡り地図 ![]() 御膳谷奉拝所 ![]() 御膳谷奉拝所は伏見稲荷大社境内の「お塚場」になります。字彫の年代を調べてみましたが、探した範囲では、「大正元年」が最古でした。他の「お滝場」と大きく変わらないようです。 ![]() お山巡りの道を半時計回りに進み、「四つ辻」へ。お山巡りの絶景ポイントです。 四つ辻からの眺め ![]() お山巡り参道を降りる途中の茶店で、吉田初三郎筆「伏見稲荷全境内名所図絵」(100円)と「深草・稲荷」という深草稲荷保勝会が編集した本(500円)を売っていたので買い求めました。後者の本で何か発見があれば、後日投稿します。 ![]() 写真のようなお山巡りの地図が茶店の前に貼ってありましたが、お店の方に尋ねたところ、手書きであって、売り物はないようです。 ![]() 「三つ辻」を奥社のほうには向かわずに、そのままお産婆稲荷の方向に下りていきます。 伏見豊川稲荷本宮の鳥居で、明治31年の字彫を発見。今までで最も古い字彫です。 ![]() ![]() 途中で、3年前に発見した私の地元の三重県の小さな町「一身田」の住人たちの建てた「お塚」を再発見することができました。 石碑には当初明治32年に建立されたとあります。鳥居には大正元年の字彫があります。 ![]() ![]() ![]() 将来の研究の題材にしょうと考えており、写真は他にもたくさん撮りました。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 荒木神社。最も古い字彫は鳥居の大正4年でした。 ![]() ![]() 「図絵」では、毎日稲荷近くに「熊鷹の滝」が描かれています。今回痕跡を発見すべく探しましたが、何も手掛かりは得られませんでした。次回、再トライです。 ![]() 前回、今回のフィールドワークから推定されるのは、「お滝」群にしても、北側参道に林立する伏見稲荷大社境外の寺社群も、明治末期から大正前期に、急速な勢いで増えていったのではないかということです。 帰りに伏見稲荷大社にもう一度寄って、御守りや御札を授与していただきました。 よろしかったらぽちっとお願いします。 ![]() にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019/08/26 08:30:38 AM
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