130年前の遺産 富岡製糸場
今年の7月16日トルコで開催された世界委員会で、上野の国立西洋美術館が新しく世界文化遺産として登録されることが決定した。これにより、日本の世界文化遺産登録数は16となった。世界文化遺産の一つ富岡製糸場は、2年前の2014年6月に世界文化遺産登録され12月には国宝に指定されている。実際は製糸場が単体で文化遺産に登録されたわけでは無く、蚕養技術を開発した「田島弥平旧宅」・高山長五郎が養蚕業の研究・教育機関として設立した「高山社」・蚕種を貯蔵した「荒船風穴」を含めた計4件が、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で構成遺産として登録されたものである。江戸時代末期の開国によって外国との貿易が始まったが、当時の最大の輸出品は生糸であった。しかし我が国には、生糸生産の規格基準が無く製法も一貫していなかったことから粗悪製品が多く、輸出先の諸外国からは品質改善を要求されるようになった。これらの要求に応えるために、品質・生産力向上を目的とした官営模範工場の建設が計画された。こうして建設された富岡製糸場には、フランスから輸入した繰糸機や蒸気機関などが設置され、さらに製糸技術の先進国から指導者を招聘しその指導によって西洋式の製糸技術が導入された。ここで働く女工は、器械製糸の指導者となるために西洋式の製糸技術を学んだ。技術を習得した後は出身地に戻って、指導者となった。謂わば、実習学校の生徒のような立場であったとされる。全国各地から集められた旧藩士や華族の良家の子女が選抜され、指導者養成のために女工として使われた。したがって細井和喜蔵著のルポルタージュ「女工哀史」に見るような、劣悪半強制労働では無かった。長さ140.4m・幅12.3m・高さ12.1mの巨大な繰糸場は、世界最大規模のものであった。木の枠組みにレンガを組んだ工法で建てられた日本と西洋の建築技術が融合した珍しい建築技法による建物が、世界遺産に登録されることになった一つの要因として挙げられる。官製工場として設立されたが初期目的を達成したとして、明治26年(1893)に三井家に払い下げられたがその後もさまざまな人の手に渡った。富岡製糸場は明治5年(1872)10月に操業を開始し隆盛を誇ったが、生糸産業の衰退に依って昭和62年(1987)に操業停止し115年に及ぶ富岡製糸場の歴史に幕が下ろされた。最終的に所有していたのは、片倉工業であった。操業停止後施設の跡利用について会社は、「貸さない・売らない・壊さない」という方針で、一般公開もされていなかった。2004年に至って施設が富岡市に寄贈されたことから、市によって一般公開されることになった。片倉工業は当時の建築技術での修復を重要視してきたため、竣工から130年以上経過した現在も施設は良好な状態で保存されている。平成19年から24年まではほぼ20万人台の入場者数であったが、H26年は世界文化遺産登録効果があって1,337,720人と60倍にも増えた。2年後になると世界文化遺産登録当初の物珍しさが無くなり、28年では全ての月で4~5万人の減となっている。がらんとした施設以外に見どころは無くよほど建物と機械設備に興味が無いと、「世界文化遺産」の看板だけでは入場者数がじり貧となるのは目に見えている。