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2016/04/29
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テーマ:京都。(6066)
カテゴリ:京都のニュース
2016年04月28日  京都新聞HP

 幕末に「禁門の変」の舞台となった京都御苑(京都市上京区)の「蛤御門(はまぐりごもん)」の命名時期が江戸中期の元禄時代にまで遡(さかのぼ)る新説を、京都産業大日本文化研究所の特別客員研究員で市営地下鉄運転手の長谷桂さん(38)=右京区=が27日までに発表した。これまでは、宝永の大火(1708年)後説が濃厚だったが、さらに前に「蛤御門」と記述された史料が見つかり、時代はまたもや遡りそうだ。

 長谷さんによると、元禄7(1694)年ごろに成立した「京都役所方覚書」の中から「六門之番人」の項目に「蛤御門番弐人」と記述されていた。同史料を翻刻した史料集「京都町触集成」(京都町触研究会編)を読み解いて見つけた。さらに宮内庁書陵部を訪ねて所蔵の「日野輝光卿記」から、宝永の大火前年の宝永4(1707)年に「祭礼通候間蛤門さし人止也」との記録を確認した。

 宮内庁の史料で祭礼時に一時的に蛤御門の通行を止めていたことや江戸期の古地図に開いた門が描かれていることから、蛤御門は「開かずの門」ではないことが分かるという。他の記録から本来の開かずの門は現在の下立売御門だった可能性が高いと結論づけている。

 蛤御門は本来、新在家御門といい、後の命名は大火後に、焼けて口を開けるハマグリに見立てたとされる。天明の大火(1788年)後の命名説が根強かったが、近年、湯口誠一氏の研究で「宝永の大火」まで遡ることが分かってきた。

 京都・観光文化検定試験(京都検定)の1級保持者の長谷さんは地下鉄業務の傍ら、京産大日本文化研究所に参加し、休日を中心に約1年半研究してきた。新説の発表に「蛤御門の命名に『天明』と『宝永』の両説があることに疑問があった。見落としている史料は意外と他にもあるかもしれない。寛文13(1673)年の火災の影響が考えられるが、なぜ蛤の名が付いたのかは分からない。今後も研究を続けたい」と話す。

 同研究所長の小林一彦教授は「命名には前から疑義があったが、時期をしっかり調べ上げた素晴らしい研究で、時代を遡ることを示した意義がある。研究は学者だけでなく、市民の方々が成果を生み出している点をみてほしい」と評価している。


現在の蛤御門。当時はやや東側にあり南向きに立っていた(京都御苑)
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見つけ出した史料の写しを手にする長谷さん(京都市北区・京都産業大)
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最終更新日  2019/03/21 09:55:22 AM
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