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ワルディーの京都案内

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2017/11/21
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テーマ:京都。(6066)
カテゴリ:京都研究
2017年11月21日(火)】

 今日は夕刻に津軽三味線のレッスンがあるので(こちら)、その前に客員研究員の研究のため京都歴彩館に午後から出かけました。これで歴彩館訪問は6回目になります。三味線をレッスン会場の十字屋さんに預けるとよかったのですが、時間が惜しいので持ち歩きました。歴彩館でコインロッカーがないか探したのですが見つからず、止むを得ず三味線を図書閲覧場所に持ち込み。大きな荷物の持ち込みは困ると言われるかもと思いましたが、何も言われませんでした。

 さて、持ってきたノートを開いて、間違ったノートを持ってきたことに気付きました。いつも図書閲覧時に持ってくるノートには、何という本の、何号あるいは何章まで読んだという記録が書いてあるのですが、それがないため前回何号まで読んだか分かりません。止むを得ず、重複してもいいからということで、若い目の10号から30号を書庫から出していただきました。そしてこの日は10号から14号まで読みました。帰宅後調べたら前回(こちら)、9号から13号まで読んでいるので、結局新たに読んだのは14号だけということになりました。スマホを持っていれば、ブログをチェックできるのですが、ガラケーなのでそれもできませんでした。

 重複部分の新たな気付きも含め、気になるところをピックアップしました。

第10号 稲荷山の経塚 三宅敏之

 法性寺御領山指図の地図に、稲荷山の麓に「天龍寺」「天龍寺小山」とあります。裏参道にたくさんの寺社が建つエリアがありますが、ここは神仏分離で廃寺になった愛染寺の寺領だった場所と推定していたのですが、ここ最近の文献閲読で、愛染寺は本殿の近くにあったようで、どうもそうではなさそうだということが分かってきました。ひょおとすると、この天龍寺の寺領だったところかもしれません。なぜ、ここの天龍寺の寺領があったのかもよく分かりませんが。




第11号 好去好来 宮司対談

 キツネ=命婦
(Wikipedia:稲荷狐には朝廷に出入りすることができる「命婦」の格が授けられた)


第12号 お塚の信仰 上田正昭

 お塚数 昭和14年 2500基、 昭和40年 7762基



第13号 稲荷信仰序説 イナリ信仰覚書・10 近藤善博

 ・・・そうした低い動物霊の活動による陰うつな伝搬と、一方国民のそうしたものを信じようとする共感的な基盤の存在は、狐をしてイナリの専有化を強めることとなるのでありますが、これをかくならしめたものは、仏教者やヒジリの参加による神仏習合や、ダキニや弁財天などの合揉による点も多かったのです。またそうした上での命婦や霊媒がイナリにはいたのであります。


第14号 伏見稲荷山信仰の特殊性 岡本吉二郎

 日本人は元来理論を好まない。最初日本に渡った仏教が理論的だったので、日本人僧侶の中には、不満に感じ、釈迦の体験を体得し、真実地に到達しようとするものが出る。彼らが峻山峻嶽に入った。吉野の金峯山などが山伏の起源。熊野も代表的で、修験道の旺盛を極めた。
 次第に低い山まで神祠が設けられるようになった。これが、山から山への巡礼旅行者を生ぜしめ、民衆の間で強固となった。しかも仏教との握手で仏教とともに発展した。
 過去における稲荷山も山嶽信仰の一つとして認めることができる。大山の山嶽信仰と同じく、山嶺に神霊を認め、中腹を中院とし、山麓に拝殿を設けた。しかし他の山嶽信仰が山麓の本宮のみ繁栄して、山嶺が忘却せられたのに対し、稲荷山は双方繁栄した。これが稲荷山の特殊性。稲荷山が低いので、登攀が容易だったという以外に、稲荷信仰の教義も影響している。山は低いが、峯あり、谷あり、滝ありで一応山嶽信仰の形態を備えていたし、冬季でも登ることができたし、女人でも自由に入山できた。
 この稲荷山の普遍性に先ず第一番に着目したのが空海。空海の山嶽信仰的入山により急激に開発され、稲荷神道は発展した。僧侶や山伏からなる修験者たちは、空海の例にならって手近で登山の容易な稲荷山に頻度高く入山した。空海や浄蔵貴所は稲荷山に住居し、また他の行者たちも稲荷講をつくって、女子子供にいたるまで従えて、稲荷山に群参し、寒中滝に打たれ禊祓をあげて苦修するものが続出した。
 これらの行者たちが稲荷信仰を高めていったのは事実だが、その中の僧侶一派の代表的人物が空海であり、壺満上人。山伏一派の代表的人物が浄蔵貴所。稲荷山は空海の入山で、仏教的形態を一層深め、神山混合の信仰形態へと移行していったので、稲荷山はその多くを仏教的に塗り替えかれ本地垂迹説*の本拠の感があった。 
 そして稲荷山の特殊形態である「塚」への信仰へ漸次向かっていった。「塚」は、古来の磐境が原拠であるが、稲荷山の塚は碑面に「大吉良大神」「お福大神」など、庶民性を露呈しているのが特徴。このような塚の信仰をもつところは他にない。
 稲荷山はその後、応仁の乱で一時衰退し、僧侶はほとんど去り、秦氏一系の社家のみとなり、本領所は空虚だったという。文禄年間に至って無縁の僧が来て、本領所の住職となって幕末に至った。明治維新の神仏分離令で、現在の稲荷山には仏教遺跡は皆無となった。

*ほんじすいじゃくせつ【本地垂迹説】 本地である仏・菩薩が、救済する衆生しゆじようの能力に合わせた形態をとってこの世に出現してくるという説。 日本では神道の諸神を垂迹と考える神仏習合思想が鎌倉時代に整備されたが、その発生は平安以前にさかのぼる。 垂迹である神と、本地である仏・菩薩との対応は必ずしも一定していない。


 一番興味を持つのが、最後の文献。稲荷山での空海から「お塚」に繋がる過程、稲荷山の山嶽信仰の特殊性もよくわかります、時代順に書かれているとすると、講ができて女子子供にいたるまで滝修行をしたのは、結構古い時代になることになりますが、この論文の特徴として、時代があっち行ったり、こっちに行ったりしているところがあるので、そこは?です。また、修験道が釈迦の体験を再体験するところから出発点になっているというのも、なるほどという感じです。応仁の乱以前も多くの僧がいたということも書かれていて興味があります。「伏見稲荷大社御鎮座1300年史」の平安時代~室町時代のところはもう一度読み直してみる必要があるでしょう。

 
「京の冬の旅」で伏見稲荷大社お茶屋を担当するので、「朱」の中でそれについて書かれた文献も一部コピーしました。


 津軽三味線の河原町御池のレッスン会場へ急ぎました。


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最終更新日  2019/06/13 07:56:56 AM
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