7740633 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2020/02/08
XML
テーマ:京都。(6066)
カテゴリ:京都案内
2020年2月8日(土)】

 「京の冬の旅」光照院の11日目でした。京都の最低気温1.8度、最高気温9.2度と、そこそこ寒い一日でしたが。手袋にもカイロを入れましたが、コートは着ずで、スタートしました。でも、午後遅くから多少風も強くなってコートを着ることになりました。ゆったりと楽しくご案内させていただきました。土曜日のわりには、拝観の方は少なかったです。やはり新型肺炎の影響があるように思います。


 前回、南北朝の始まりの部分まで書きました(こちら)。今日はその続きです。今回も「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/のサイトを参考にしています。

 後醍醐天皇が京都から吉野に去ると足利尊氏は持明院統の光明(こうみょう)天皇(北朝第2代)を擁立、建武式目を制定し新たな幕府である室町幕府を開きます。光明天皇の即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになりますが、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされています。

 一方、吉野へと逃れた後醍醐天皇は「朝廷に返した三種の神器は偽物である。そのため光明天皇の皇位は正統ではない。」と主張し、延元元年(1336)、吉野で南朝を開きました。こうして北と南、2つの朝廷が誕生することとなりました。

 その後、北朝、南朝の間で軍事衝突がたびたび繰り返され、名和長年・新田義貞を始め多くの南朝方の武士が次々と戦死し、また延元4年(1339)に後醍醐天皇が崩御したことにより、北朝が軍事的に優位に立つこととなります。

 しかし、室町幕府内では観応の擾乱といった内乱が勃発してしまいます。将軍・足利尊氏とその弟・足利直義の対立で、正平6年(1351)に足利尊氏は弟・足利直義の勢力に対抗するため一時的に南朝と和議を結び、後村上天皇から直義追討の綸旨(りんじ)を得て直義を討ち勝利しました。しかし南北朝の内乱はさらに激化していきます。

 そして、ついに元中9年(1392)室町幕府3代将軍・足利義満の斡旋により大覚寺統と持明院統の両統迭立、国衙領を大覚寺統の領地とする、といった明徳の和約が定められ、これによって南北朝の合体がなされ、56年間にも及ぶ南北朝時代は終わりを迎えました。


 ちょっと横道にそれてしまいました。次回から光照院中心のお話しに戻ります。






 
 夕刻、M社事業部門時代の軟式テニス部の仲間との飲み会があり、京都駅方面に向かいました。


よろしかったらぽちっとお願いします。


にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021/01/29 10:13:54 AM
コメント(0) | コメントを書く
[京都案内] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ワルディー・ヨーリョ

ワルディー・ヨーリョ

フリーページ

カテゴリ

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.