テーマ:京都。(6068)
カテゴリ:若冲と応挙
【2021年10月25日(月)】
24日は日曜でしたが、終日事務所出頭。 今日は、終日、会の諸事を在宅でするなか、月イチの高血圧・高尿酸の診察で近所のO医院に行きました。血圧の測定結果をグラフにプロットして持っていくので、血圧を計ることもありません。尿酸値は、この前の健康診断結果が良好であり、痛風の発作が起こってないことを伝えました。いつものアムロジピンとフェブリクをもらいました。 「若冲と応挙」第55回。付録3 応挙年譜のその7(56歳から没)です。 西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向 1789(寛政元)57歳 ◆3月8日、僧六如と伏見へ観梅に行く。「龍門鯉魚図」を描く。 1790(寛政2)58歳 ◆禁裏造営に際し、一門を率いて障壁画の制作にあたる。 1791(寛政3)59歳 ◆2月、東本願寺岐阜別院の障壁画「竹雀図」、「墨梅図」を描く(のちに本山に移され る)。 1793(寛政5)61歳 ◆この頃から、老病を患い、眼病も悪化し、制作に支障をきたす。 10月、大乗寺に「竹図」を描く。 1794(寛政6)62歳 ◆天明の大火の影響で中断していた金刀比羅宮表書院の障壁画を、 10月に再び制作し「瀑布・山水図」を描き、完成。「竹林七賢図」、「江口君図」を描く。 ☆江戸では東洲斎写楽が江戸三座興業の役者を描き、人気を得る。" 1795(寛政7)63歳 ◆天明の大火の影響で中断していた大乗寺の障壁画を再び制作し、 4月に「松に孔雀図」を描き、孔雀の間を完成させる。 5月中旬から備前瑜迦山蓮台寺の「鶏・竹図」の制作を行い完成するが、 落款を入れられず、応挙の死後、子の応瑞が父応挙の印を捺す。 6月、「保津川図屏風」(株式会社千總)を描く。 7月17日、死去。四条大宮西入悟真寺(現在、太秦に移転)に葬られる。 法名は円誉無三一妙居士。墓碑は妙法院宮真仁法親王の筆になる。 香住・大乗寺「松に屈若図」 出典: 樋口一貴著「もっと知りたい円山応挙」2013年 東京美術株式会社発行 別冊太陽「円山応挙」2013年 株式会社平凡社発行 山川武著「応挙・呉春・蘆雪」2010年 東京藝術大学出版会発行 これで応挙の年譜を終わります。 ●前回はこちら ●次回はこちら よろしかったらぽちっとお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021/10/31 12:37:01 PM
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