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カテゴリ:テレビ・ネタ番組
テレビ。「キングオブコント」。
司会、ダウンタウン、小林麻耶アナ。 まず、何故、「C-1」ではなく「キングオブコント」というタイトルなのかということだが、「M-1」や「R-1」との差別化、ということ以上に大きい理由は、そもそも、「M-1グランプリ」というタイトルが「K-1グランプリ」をもじったものなのだから、それをさらにもじるのはおかしいんじゃないか、という、じつに松本人志らしい単純な美学によるものではないのか。おそらく、差別化先にありき、ではないはずで、そのような松本の性向からしたら、ひょっとしたら「M-1グランプリ」というタイトルすら気に入っていないかもしれないとも思えるが、それはまぁいい。 言うまでもないことかもしれないが、この2時間番組だけを観た視聴者には知らされていないことだが、この「キングオブコント」という大会の性質を牽引しているのは、間違いなく松本人志である。というよりも、まわりが勝手にひっぱられていってしまっているととるべきか。「M-1」との差別化を最優先するのならば、松本人志がかかわらなければ良い。または、予選の審査員をまったく違うメンバーにすれば良い。それだけのことなのだが、松本自身はただただ無自覚に思える。 ◇Aリーグ。 TKO。合コンのコント。与太郎的なキャラクターで古典的展開。木下のような、特にギャグがあるわけではなく、表情で笑わせるタイプというのは現代にはいるようでいない。キャリア18年、それ相応の技量。特に突出している気はしない。 バッファロー吾郎。例えば、仲間内の会話のなかではなんでもないことで笑いころげてしまうことがよくあるが、バッファロー吾郎がやっていることは、その仲間内の規模を拡大する作業である。特定の固有名詞を発することにより、イメージを共有する優越感。80年代のビートたけしがやっていたことの、ある部分と同じ。TKOもそうだが、ダウンタウンに続くこの世代は、演芸よりもおそらく、90年代の不条理ギャグマンガに影響を受けて笑いを作ってきた世代であるが、バッファロー吾郎には、むしろ、70年代のジャンプ系のギャグマンガを思わせる感触がある。青年期よりも、幼少期の感性を愚直に保ち続けている良さであろうか。しかし、このような魅力は、コントの力量とはあまり関係がないもののように思える。擬音も含めて、すべてをセリフで説明してしまう身もふたもなさ。 ザ・ギース。卒業式のコント。やはり、おとといの「ラ・ママ」は今日のための実戦演習でもあったのだ。しかし、おとといダメだった“間”が、きちんと保てていたので安心した。しかし、とてもよくできた台本だと思うが、それを演じる、コメディアンとしての肉体がまだまだ面白くない。同じ台本で、例えば、バナナマンが演じれば確実に数倍面白くなるはず。基礎体力のなさ。あと、観るたびに思うことだが、最後の「祝」の字はもう少しきれいに決まって欲しい。 天竺鼠。結婚式のコント。司会もスピーチもそれらしくない。現実からコントを作っているのではなく、コントからコントを作っているような。 これは美術スタッフの領域になるのだろうか、まずひどいと思ったのは、背景にある、あの書き割りセットだ。あれはもう、はっきりと邪魔である。悪名高き「エンタの神様」の字幕のようなもので、仮に、番組総体としてはプラスになるような場合でも、これが公正なるコンテストであるかぎりはネタに干渉するような演出は言語道断であろう。 Aリーグ、バッファロー吾郎が決勝進出。まぁ、順当か。 ◇Bリーグ。 チョコレートプラネット。会話の語尾がギリシャ神話っぽくなるコント。シンプルで秀逸なアイデアだが、展開に起伏がないのが惜しい。もっと面白くなる可能性を秘めたネタ。ただし、やはり、コメディアンとしてのスキル、キャラクターはまだまだ発展途上段階に思える。 ロバート。トゥトゥトゥトゥトゥトゥトゥサークル。ザ・ギースとは対照的に台本には表しにくい、聴覚的に特化した、身体的に優れたコント。かなり可笑しい。異常なことに執着する人間がふたり出てきて、まともな人間がまきこまれるという構造はネプチューンと同様。しかし、ネプチューンの場合は名倉のツッコミがわかりやすさのための触媒の役割をはたしているが、ここでの山本はもっと困惑の度合いが強い。常識の側に立つ名倉の立場が揺らぐことはないが、ロバートの3人の関係性ではまともな山本がいちばん弱いのだ。ここが今様というか、突飛な設定にリアリティを与えている部分ではないか。 バナナマン。おなじみ、朝礼のコント。ここでこれを持ってきたかという感じがある。新鮮味のなさを危惧したが、見事に緊張感をキープしていた。さすがの蓄積、完成度は文句なしでトップ。説明的なセリフは廃し、芝居で惹きつける。視線の定まりかたひとつとっても尋常でない。 2700。唯一、初見のコンビ。お笑いライブの熱狂的なファンのコント。このピン芸人とファンとが互いに依存し合った関係であるのと同様に、このコント自体も、観客の能動的な視点に依存したものである。好意的でない観客の前ではきわめて脆弱。 それにしても、物議をかもした審査方法。まがりなりにも準決勝まで残ったプロの芸人100人に、そろいの白いポロシャツを着用させ、わざわざ無個性にしたうえで、「オンエアバトル」の観客のようなことをさせるのには制作者の神経を疑う。こんな“雛壇芸人”以下の扱いは、“芸人”というものの価値をますます軽んじることになりやしないか。ましてや、準決勝で自分たちのコントを否定されたものたちが、それよりも優れていると判定されたものたちをどのようにジャッジできるというのだろう。いや、そもそも、根本的に間違っているとしか思えないのだが、これは「審査」ではなく「投票」と呼ぶべきものである。あの場にいたセミファイナリストたちは、じつは、「審査」らしきことはなにもしていない。個性を奪われた100人に、責任が100等分されるだけのこと。さらに重要なことは、コメントを求められても、皆、真剣な発言を回避していたことで、バラエティタレントとしては有能に思えるこれらのふるまいは、なによりも、ムードがあの場を支配していることを示してやしないか。 審査をする、というだけでなく、100人の芸人があの場で観ているということだけでも、会場のムードにはたいへんな影響があるはずである。面白くなるはずのものでも面白くならない可能性があるし、笑いの照準に歪みも生じ得る。 Bリーグ、ロバートの高得点をおさえて、バナナマンが決勝進出。ロバートもバッファロー吾郎の得点は超えている。 ◇最終決戦。 バッファロー吾郎。これは1本目と大差ない印象。 バナナマン。宮沢りえとメシのコント。おととい、「ラ・ママ」で序盤をはしょっていたのは、やはり、これ用のサイズだったのだ。しかし、ここをはしょってしまうと、日常のスケッチ的なところへ、突然、宮沢りえの名が出てくる飛躍が死んでしまうのだ。飛躍からのスタートは、かなり惜しい。 そして、結果発表。2組による口頭発表も無駄な儀式に思えるが、そのあとの、ファイナリスト6組が記名投票したうえでの口頭発表の残酷さ。バナナマンに投票したのはザ・ギースのみ。危惧されていたことが現実になった。 これは「審査」でもなんでもない。露悪趣味的なリアリティ・ショーだ。 コンテストの体をなしていないとんだ茶番劇。 【Aブロック】 TKO 368点 バッファロー吾郎 460点 ◎ ザ・ギース 400点 天竺鼠 388点 【Bブロック】 チョコレートプラネット415点 ロバート 473点 バナナマン 482点 ○ 2700 327点 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009年11月03日 12時06分19秒
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