カテゴリ:西国三十三所霊場
○二十八番 丹後国与謝郡成相寺
齋遠禅師は山口県出身。京都の東寺にいて後に故郷に帰ったが、常に観世音を念じていた。 その後、霊場を探して諸国を巡り、丹後国にいたった。天橋立の風景が世にも稀なので、有縁の霊地だと思い、中村郷の世屋山に質素な小屋を建て法花経を読誦した。 ある年著しい大雪で里との交通が途絶え、庵の食料が尽きた。庵の近くの空地に鹿が一匹死んでいた。食べるべきか否か悩んだが、殺生には当たらない、食べて生きて人びとを済度すれば鹿の菩提を弔うことにもなると、鹿の太腿を切って鍋で煮た。 一箸食べるとたちまち元気になったので、後のためと一切れ鍋にとっておいた。 春になって里人が飢え死にしているのではないかと、様子を見にきたところ、いつものように読経の声が聞こえた。何を食べて生き延びたか尋ねられたので、禅師はありのままを話した。里人はそんなはずはない、鍋の中には箔の付いた木屑があるだけだと言った。 禅師が鍋を見ると確かに木屑だけだったので、はっと気付いて仏堂を開くと、聖観世音の腰の下に二寸ほどの切った疵があった。禅師が餓死するのを不憫に思い菩薩が我身お与えになったと考えて、残りの木屑を疵のところに当てると、観世音は元通りになった。 これを見た里人は、禅師の尊さを知りそこに堂を建立し成相寺と呼んだ。 本尊の聖観世音は禅師の念持仏。 常に信心の誠のある家には、病気災難の憂いが少ないものだ。 ○二十九番 若狭国鴻浦松尾寺 一条院と鳥羽院が建立。 鴻浦の長、結城宗太夫は観世音信仰が篤く、一寸八分の馬頭観世音像を常に身につけていた。慈悲深く、陰徳ある人柄で村の庄官として敬われていた。 ある時全ての漁船が遭難し、宗太夫も亡くなったと思われ、親類縁者が集まり百ヶ日の法要をしている最中、宗太夫が一人帰ってきた。 宗太夫は顛末を語った。羅刹鬼国に流され鬼女に捕まりそうになったが、観世音が現れて早く逃げなさいとお告げ下さった。白馬が嘶くのが見え、その馬に乗れと声が聞こえた。馬に乗ると雲の上を飛びいつの間にか若狭の浦に着いた。馬の尾は木に変わり白馬は山の方に行ったと語った。 それは馬頭観音だろうということで皆で山に行くと足跡だけで姿はなく、鳴き声のする方に行くとさっきの木があった。その木で馬頭観音像を刻み山に安置した。 この話が都に伝わり、一条院の勅命で御堂が建立され、宗太夫に下されたので、その子孫が堂の主になっている。 堂内には宗太夫の像もある。 信濃国都熊の湯で起きた馬頭観音の不思議。 ○第三十番 近江国浅井郡竹生嶋 本業寺と号 観音堂は行基菩薩が建立。 弁財天女鎮座の霊地。 祭神は稲倉の魂命の御子神。 社僧は天台社領三百石。 昔役行者が来て竹を投げたところ、竹が生えてきたので竹生嶌と名付けられた。 聖武天皇の夢で竹生嶋の弁財天が宝殿をお建てくださいとおっしゃった。夢から醒めると白蛇が守護していた。このため、行基菩薩に命じて勅願として宝殿を建立した。あわせて、忍穂耳尊、大己貴尊の三社をお祀りした。 弁財天のお告げにより、行基は一刀三礼して千手観世音像を自ら彫刻した。 弁財天は観音二十八部衆の内であり、西国三十三札所となる。 日本六ヶ弁財天霊所というのは 相州江の島 奥州金華山 江州竹生嶌 安芸厳島 駿州富士 和州天の川 仲算上人とその時稚児。 紀州より札打ちして竹生嶌に渡ろうとした者たちに起きた不思議。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年03月04日 09時09分00秒
コメント(0) | コメントを書く
[西国三十三所霊場] カテゴリの最新記事
|
|