「時代祭の歴史」の解答です。
そうだ京都、行こう。 東福寺1997年秋編
(下記行をクリック)
https://www.youtube.com/watch?v=3FW-5BEzSS8
●時代祭の歴史
・京都の誕生祭として、10月22日のい行われるが、この日は(平安奠都◎)した日。
・平安神宮は、明治28年(1895)、(第4回内国勧業博覧会◎)の記念殿として
模造朝堂院が建てられ、桓武天皇を奉祀する神宮として創建された。
社格は(官幣大社◎)。
・ここで(平安奠都千百年記念祭◎)が盛大に挙行された。
その記念祭への奉祝行事として、幕末維新から平安創業までの時代風俗行列が企画さ
れた。それが時代祭の始まり。
・昭和15年(1940年)には、京都で最後の天皇となった孝明天皇も合祀された。
時代祭は桓武・孝明両天皇の御霊代を鳳輦に移し行われる、(神幸祭◎)・
( )→行在所祭・(還幸祭◎)が中心。
・1回目の時代行列は、明治28年10月22日から24日まで行われた記念祭の奉祝行事と
して位置づけられ、翌25日に挙行された。
時代考証は(米田錦二)→金子錦二、(久保田米せん)→米僊らが選ばれた。
・昭和25年に復活し、各時代の(女人列◎)が加わり、同28年には(紫式部◎)、
(清少納言◎)、(出雲の阿国◎)といった各時代の有名婦人列に整備された。
・同41年(孝明天皇百年)→・・・祭を記念して、(坂本龍馬)◎、(桂小五郎)◎
→高杉晋作といった
(維新志士列◎)も加わった。
・平安神宮の維持保存のために、全市から成る平安講社という市民組織が整えられ、今も
この祭の執行母体となっている。
この講は市内の(学区単位)→旧学区単位ごとに編成される(組◎)を単位とし
て構成されたもの。
・最初は、(市役所◎)から(寺町通◎)を北上、(二条通◎)を西進、(烏丸通◎)
を南下、(四条通◎)を東進、(河原町通)→縄手通を北上、(三条通◎)を東進、
平安神宮へ向かうというルート。
・その後(御所◎)を出発、(堺町御門◎)から出て、(丸太町通◎)を西進、
(烏丸通◎)を南下、(四条通松)を東進、(縄手通)→河原町通を北上、(三条通◎)
を東進、(神宮道◎)を北上。
現在は、(四条通◎)が(御池通◎)になった。
・(山国隊◎)は以前は(京北町◎)からの奉仕だったが、明治35年から5年に1回の奉仕、
となり、大正10年からは(朱雀学区◎)が継いで「維新勤王隊列」に加わった。
・( )→新洞・(錦林◎)両学区は、それまで第3社に属して、(前列◎)を
担当していたが、独立して第7社を組織した。
・昭和6年、(伏見区◎)と(右京区◎)が新設され、それぞれ第9社、第10社を組織。
それぞれ、新たにできた( )→楠公上洛列( )→豊公参朝列に参加した。
◆現在の隊列
・維新勤王隊列
維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡(山国)→・・・村
(現在・右京区京北)の有志が(山国隊◎)を組織して官軍に加勢した。
そのときの行装にならったもの。
・幕末志士列
桂小五郎、(西郷吉之助◎)、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作、
(頼樹三郎◎)、(梅田雲浜◎)、(吉村寅太郎◎)、( )→橋本左内、吉田松陰、
( )→平野国臣等幕末の知識階級の武士で、明治維新はこの人たちの大きな働きに
よって基礎が築かれた。このほか、幕末に対抗するため天皇を動かさんとした7人の
公卿のいわゆる(七卿落ち◎)の列など、当時の公卿達も列に加わる。
・(江戸城使上洛列)→徳川・・・・
・江戸時代婦人列
(和宮◎) 孝明天皇の皇妹
(蓮月◎) 江戸時代の女流歌人
( )→中村内蔵助妻 京都銀座に巨万の富を有した( )→中村内蔵助の妻、
当時妻女の衣裳比べの会で抜群の誉を得た人。
( )→お梶 女流歌人で、祇園に茶店を営んでいた。
(玉蘭◎) 池大雅の妻で、閨秀画家として南画をよくした。
吉野太夫 寛永の頃、京都六条三筋町の名妓。
出雲阿国 歌舞伎の創始者とされる人
・(豊公参朝列)
(秀吉)◎→豊公の参朝のうち慶長元年五月(秀頼◎)初参内の列をあらわしたもの。
・(織田公上洛列◎)
・(室町武官列)→室町幕府執政列
武家風俗を中心とするもので、(足利尊氏)→足利将軍を中心とした当時の武士の
軽武装姿を表現している。
(足利尊氏)→足利将軍に幕府の執政にあたる(三管領◎・五職)→四職に任ぜら
れる主要氏族が御供衆として従い、公家・法中・御博士・医師などの特色ある風俗
が表現されている。
・(風流傘列)→室町洛中風俗列
室町時代後半に京の町衆によって盛んに催された(風流傘)→風流踊りを再現したもの。
(風流傘◎)を中心に、囃子方、踊り手で構成される。
この風流踊りは全国各地に伝わり様々な芸能を生み出すとともに、江戸時代以降の盆踊り
の原型ともなっている。
・(楠公上洛列◎)
(後醍醐天皇◎)が隠岐から還幸された際、(楠正成)→楠木正成は一族郎党を率いて
鳳輦を兵庫に迎え、先駆として上洛した。その(楠家)→楠公一代を通じての盛事で
あった行列。
・中世婦人列
(白川女)→大原女 洛北の婦人で古来薪、炭等を頭にのせ京の町へ売りに出た
(桂女◎) 洛西の女性が髪を白い布で包み、着物を短く着た装束で、主として鮎と飴を京の
町々に売り歩いていた。
(淀君◎) 豊太閤の側室で(浅井長政)の娘
( )→阿仏尼 藤原為家の室
(静御前◎) 源義経の愛妾で白拍子。
・(城南流鏑馬列◎)
承久3年、(後鳥羽法皇)→・・・天皇は朝威回復をはかられ、(城南宮)→・・・離宮で
(流鏑馬◎)に託して近畿十余国の武士を召された。 この列は狩装束の射手の武士を
中心とした5組をあらわしている。
・(平安文官列列)→藤原公卿参朝列
平安中期以後、(藤原氏◎)の盛時における文武両様の姿をあらわしたもの。
・平安時代婦人列
( )→巴御前 ( )→木曾義仲のちょう愛をうけ、( )→義仲没後尼となったと伝え
られている。
(横笛◎)( )→建礼門院の雑仕女で滝口の武士(斎藤時頼◎)と恋におち、嵯峨へ
(時頼◎)を尋ねて
行く姿。
(常盤御前◎)(源頼朝)→源義朝の夫人で、(頼朝)→義朝亡き後、三児を連れて六波羅
へ名乗り出るところ。
(紫式部◎)(清原清輔)→藤原宣孝の妻で、源氏物語の作者。
(清少納言◎)( )→清原元輔の女で、枕草子の著者。
(紀貫之◎)の娘(貫之◎)は延喜の頃の名歌人でその娘。
(小野小町◎)(小野 )→小野良貞の女で才色ともにすぐれた人。
(和気広虫◎)(和気清麻呂公◎)の姉で、慈悲深く多くの孤児を養育した人。
・(平安武官列)→延暦武官行進列
本列に大将に当る者は征夷大将軍(坂上田村麻呂◎)を擬したもの。
・(平安文官参朝列)→延暦文官参朝列
この時代の公卿諸臣の参朝の状景をあらわしたもの。
・( 行進列)→神饌行進列
・(前列◎)
( 列)→神幸列に前行する故にこう呼ばれる。( )→雅楽の伶人、
( )→迦陵頻伽、( )等優美な行列で、また多数の狩衣姿の供奉もある。
・( 列)→神幸列
御賢木(おんさかき)を先頭に、御鳳輩を中心とする神幸の本列。
先の御鳳輦が(桓武天皇)→孝明天皇、後の御鳳輦が(孝明天皇)→桓武天皇で即ち御神祭が
この京都を御巡幸になって、市民の安らかな様を親しくご覧になるのであって、全各行列は、
この御神祭におともをして行進するわけで、本行列中、主たる意義をもつ列である。
・( 列)→白川女献花列
・(弓箭組列◎)
丹波国南桑田、船井両郡には、(源頼政◎)に従って(弓箭◎)の術を究めた者が多く、
その子孫も平素(弓箭組◎)を組織していた。桓武天皇平安遷都の際その御列の警護に
あたったとも、また、維新の際には(山国隊◎)とともに活躍したともいわれている。
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