テーマ:京都。(6066)
カテゴリ:若冲と応挙
【2021年9月30日(木)】
今日はもともとは「京の冬の旅」六道珍皇寺の予定でしたが、緊急事態宣言でキャンセルになっていたのでフリー日。終日会の諸事でPCとにらめっこでした。 「若冲と応挙」第52回。付録3 応挙年譜のその4(36歳から40歳)です。 西暦(和暦)年齢 ◆:応挙の動向、☆:芸術・文化人の動向、*:政治・社会の動向 1768(明和5)36歳 ◆『平安人物志』の画家部で大西酔月に続き二番目に掲載される。四条麩屋町東入丁に住む。 三番目以降は、若冲、池大雅、与謝蕪村。「七難七福図巻」を描く。 近世臨済禅中興の祖とされ、多くの禅画を遺した白隠慧鶴没。 清田儋叟(せいた・たんそう)「孔雀楼筆記」のなかで、応挙についての画評・人物評が 載る。 *食文化が発達し、てんぷら・刺身・蒲焼などの現在でもお馴染みの料理ができ、料理の本も 実用書から楽しめる読みものが出版された。 1769(明和6)37歳 ◆円満院雪之間の襖絵を描く。「雪中山水図屏風」(相国寺)、「芭蕉童児図屏風」(個人)、 「雨中山水図屏風」を描く。 1770(明和7)38歳 ◆「写生図巻」、「青鸚哥図」、「人物正写惣本」(天理大学附属天理図書館)を描く。 ☆鈴木春信没。大坂・木村蒹葭堂のサロンで書画会が開かれ、池大雅が「竹巌新霽図」を 出品する。 *各地の大干ばつで京の送り火も中止となった。 1771(明和8)39歳 ◆「牡丹孔雀図」(相国寺)、「写生雑録帖」、「花鳥写生図巻」を描く。 6月、三井家にて蓮花を写生。この頃から三井家との関係が始まると思われる。 ☆池大雅と与謝蕪村が合作「十便十宜」を制作。その一作品に明和8年の款記がある。 特に三井家4代高美、5代高清、6代高祐と深い交流があった。 *伊勢への「おかげまいり」が流行。 1772(安永元)40歳 ◆三井惣領家(北家)で「夕涼み図」を描く。「大瀑布図」(相国寺)を描く。 *田沼意次が老中に就任。" 「夕涼み図」 (続きます) ●前回はこちら ●次回はこちら よろしかったらぽちっとお願いします。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021/10/02 04:31:08 PM
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