|
カテゴリ:手話
多分,21世紀の今日でも、手話が本当の言語とは思っていない人は多いと思う。どんな未開な部族であっても「音声言語」を話す事は当然だと考えるのに、いざ手話になると、同じ国に住む「ろう者」であっても、疑いの目がつきまとう。どうしてだろうか。
音声言語であれば、どんな外国語であれ通訳を通して話している事を知る事が出来ると確信出来るが(テレビのルポ等で、よく見かける光景である)、手話となると、ます手話を話している人に実際にあったことがない人が多い、これが障害になっているのは事実。自分の手と体を使って文章を作った体験がないのだから,実感がわかないのは当然だろう。 しかし音声言語であっても、書記言語をもっていない言葉に関しては、歴史上、言語と見なされていない時期もあった。この「偏見」を覆すのに貢献したのが,フランスの言語学者マルチネの「二重分節」である。全ての言語(彼の場合,音声言語のみが対象。彼は手話は認めていない)は、意味を持たない最小単位である「音素」と、意味の最小単位である「形態素」に「二重に分節」出来ると説いた事により,書記言語をもたない様々な人達の言葉も、記述されるようになり、それらが全て言語である事が証明された。 これは言語学における歴史上の大きなる功績と考えていいと思うが,これがあまりに浸透した事により,音声言語とは別の感覚器官を使い,そのため全く違う構造をもつ手話が排除される運命を辿る。更に,ソシュールの「シーニュの恣意性」の誤った解釈がこれに拍車をかける事になる。手話の「図像性(手話のサインの多くが,視覚的な形をまねて成立する事)」は、シーニュは恣意的であるというソシュールの理論に反すると、いとも簡単に決めつけられてしまった。こう考えた人達のうち一人でもいいから、ろう者のコミュニティーにとけ込み手話を学んでいたら、今こういう状態にはなっていなかったかもしれない。この「嘘」は「無知」から来ていたのである。 ただ、手話を研究しているからと言って、手話に関して正しい理解をしているとは限らない。手話を使う、ろう者自身も、手話がちゃんとした言語であると言う認識も持っていない時期もあった。また、特にアメリカの言語学者達の中には、手話を「エキゾチックな言語」の1つとして扱って、それを話す、ろう者の事を見ていない人達がいるようである。幾つかの発表を見たが,時に聞くに堪えないものもあった。(フランスの手話言語学に携わる人達は、ろう者と共に歩んできた先駆者のおかげでこういう間違いは犯さない。今後、フランス発の言語学が世界に広まる事を望むばかりである。)例えば、アメリカには、指文字が手話だと思っている人もいる。確かに指文字は、今の手話の中で重要な位置を占めている。と言うのは,ろう者の住んでいる「聴者コミュニティーの書記言語」との接点になるものであるからである。しかしこれは、後から付け加えられたものであり,手話の本質とは言いがたい。ろう児の教育法の研究ならまだしも、これをまじめに言語学しようとしている姿を見ると情けなくなってくる。 後、もう1つ,特に日本では非常に強い傾向なのだが,手話が「音声言語を身振り手振りで置き換えたもの」と考える人達がいる。私の知っている言語学のフランス人の先生も(本人は直接言わなかったが)話の内容から判断すると確実にそう考えていた。日本では,日本手話と日本語対応手話の両方が使われていて,聴者の中には手話サークル等で日本語対応手話が「手話」と思って習っている人も多いと聞く。日本語対応手話は、音声日本語の語順にそってサインを並べていくものであり,自然発生的な手話とは、個々のサインで類似点はあっても、全く別物である。これは、日本語の語順が、手話の自然な語順と似ている事が大きく関わっていると推測する。 フランスでは、音声フランス語と手話の語順は全く違っており,こういう混同は起きない。それに対しアメリカ手話では、音声英語の影響がかなり入っているようである。普通,手話では「名詞+形容詞」の語順が自然なのだが、アメリカ手話では英語のように「形容詞+名詞」がよく使われると言う。それに、音声英語からの概念の借用は、片手で指文字を使いスペルする事で行なわれる。ちょっとややこしい話になると,手話通訳者は、片手を挙げてしょっちゅう指を動かしている。フランス手話では、それに対応するサインを、時間をかけてもちゃんと考えて普及させて使っている。 手話が禁止されなかったアメリカでは、手話に音声言語の影響が強いのに対して、手話が禁止された期間が長かったフランスでは、ろう者のコミュニティーないで、かなり純粋な形で手話が継承されてきたと言える。この事を,おおっぴらには言う人は少ない(手話禁止の肯定と取られる可能性があるため)が、かなりの人が実感としてもっている。 手話言語を「音声言語のジェスチャー版」と見る人達について書いたが,フランスのレペ神父(l'abee de l'Epee)が、世界で初めて手話を発明したと考えている人達も、まあ同類である。これは正しい情報を得ていない事から来るのだが,思い込みの力は強く、この偏見を取り除くのは中々難しい。特に,報道番組のキャスターが、そう思い込んでいる場合,この「誤解」が、視聴者を通して「再生産」されていく。 神父は,世界で初めて,ろうの子ども達を集めて手話法を使っての教育を実践した人なのである。ろうの子ども達は、それぞれ既に手話を使っていたが,同じ学校で学ぶ事によって、サインや文法の標準化が進んだ。神父は、子ども達にフランス語やキリスト教を教えようとしたから、それまで手話に存在しなかった概念を表すサインを作り,それで教育をしようとした。この新しいサインでの教育自体は成功しなかったが(しかし今でもその名残はフランス手話のサインに見られる),手話でも、抽象的な思考が出来ると主張し、その後、手話法での教育が実を結び、多くのろうの知識人を輩出した。今でも世界中のろう者達から神父が尊敬されているのは、こうした功績によるものである。 話があちこち脱線してしまった感があるが、最後に一言。手話は、音声言語と同じ「言語」なのである。このことが当たり前になる日が、そして、誰もが、ろう者と交流し,手話を普通に使う社会が早く来て欲しいと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.15 07:09:51
コメント(0) | コメントを書く
[手話] カテゴリの最新記事
|