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カテゴリ:記憶科学
Big Think: Is consciousness an illusion? 5 experts explain
「consciousness」という英語の単語は、通常、日本語では「意識」と訳される。 この動画を視聴し始めて私が直ぐに感じたのは、西洋人の問題設定に関するいくつかの問題である。 第一は、我々一人一人の人間の主観的な意識が「consciousness」であると考えている事である。 そして、もう一つは、その人間の主観的な意識である「consciousness」は脳の中で生成されると考えている事である。 これは、オーストラリアの哲学者のチャーマーズ氏が提案した「意識のハードプロブレム」に該当する。 他に、何が出てくるのか分からないが、続けて視聴してみる。 三つ目は、物質対精神という二元論。 これは一つ目の人間の主観的な視点で「consciousness」を捉えようとする事で生じる。 この二元論を超える思想として「Panpsychism(汎心論)」が紹介され、人間以外にも動物が、更には非常に小さな物質にも非常に小さい「consciousness」があるのではと続く。 面白かったのは、クリストフ・コッホ氏が、自身がカトリックの教育を受けた人間として、人間には肉体があるが、それを司るものが魂であって、そこには自由意志が働くと言っていたことである。 自由意志というのは、やはり、カトリックの神に逆らう人間の勝手な意志だという事になるのだろうか。 更に面白かったのが、ヒンズー教の僧である Swami Sarvapriyananda 氏が、意識の研究の上で、デカルトの「我思うゆえに我あり」を引き合いに出した事である。 どちらも、人間の主観が基本になっているというのが理由の様である。 インド哲学と西洋哲学は、ここで融合する事になるのだろうか。 残念だったのが、Sarvapriyananda 氏が人工知能は人間の知能、記憶、創造性、決定の実践を再現できているとコメントした事。 更にそれでも人工知能ができないのは、意識を持つ事であると結んでいる。 「consciousness」のみが唯一実践可能なものとして、意味や目的を持つ事と言っていたのに残念。 人工知能という用語の設定に問題がある。 人工知能と人間の知能を一種並列に見ていて、言語をコミュニケーションの道具であると考えていて認知科学が基本になっている。 Reid Hoffman 氏は、人間中心主義を捨てようと言っているのに、動物も考えていると前提にするのは、まずいだろうと私は思う。 人間が言語でコミュニケーションが可能になるのは、互いに同じ言語の形と同じ言語の意味を共有できる、共通のプラットフォームがあるというのが私の考え方であるが、Hoffman 氏は、そういう点には全く言及していない。 コミュニケーションが成立する事は、デフォルトな事の様である。 ここで「人工知能」の「知能」の使い方に戻る。 知能というのは認知主体が外界の知覚刺激を通して直面する問題をどう解決するかという認知科学的な文脈で使われていて、人間の知能というのも、その延長線上にある事になっている。 私は、この視点を、もう30年近く前に否定して研究をしてきた。 続く Melanie Mitchell も知能に関する見方は私が過去に捨てたもの。 知能というのはシームレスに高度化してて、動物や人間、或いはそれ以外のものの知能を一つに軸上に配置できるというもの。 これは、人間が言語を獲得して全く違う次元に入った事を知らない事からくるが、この視点が普通だろう。 Mitchell 氏も明らかに「consciousness」に人間の主観的な意識、つまり自分を自分であると認識できる自己意識を投影している。 人工知能という「機械学習」が現代の「consciousness」の研究に様々な疑問を投げかけているのには賛成するが、これでは、完全に袋小路に入ってしまっていると私は考える。 ここで、ペンローズ博士が、人工知能は「consciousness」を持っていないから、自分がやっている事を理解する事はないと断言する事から始まる。 博士が自分は物理主義者であるとしているから、そこには生命と一緒に誕生した認知に関する考察は一切無い。 でも、量子力学との共通点は私も認める。 麻酔医師のハメロフ氏が注目した「微小管」であるが、これも結局はペンローズ博士と同じ物理主義的な視点である、そこには大きなミッシングリンクがある。 それが、宇宙の歴史上、物質と人間の誕生の丁度、中間に位置する「生物認知的な記憶、離散的に展開する時空間の誕生」である。 最後にヒンズー教の僧である Sarvapriyananda 氏が再び登場するが、インドの宗教や哲学は、西洋のものと非常に親和性があるようであり、今の動画のように「consciousness」の研究に関して西洋人と一緒に研究を進めている。 日本人である私には、非常にとっつきにくいアプローチであるのは確かだ。 動画の締めくくりに Christof Koch 氏が再登場して、もしかしたら我々の知らない、より広い「consciousness」が、この宇宙に広がっているかもしれないという考えもあると指摘しているが、これも「人間の主観的な視点」によって構築されたものである。 進行役の Kmele Foster 氏が「consciousness」というのは「ineffable(言葉では言い表せない)」のではと疑問を投げかけるが、Koch 氏は、とりあえずやってみなければ分からないと結んでいるが、言葉で言い表せないと嘆く前に、言葉とは何かを先ず定義する所から始める事を私は二人にお勧めする。 Reid Hoffman 氏が仏教の教えについて最後にコメントしているのは興味深い。 私の考えも、仏教の教えと通じる所があるのではと考えている。 しかし問題は、それをどうやって科学するか。 私が提案するのは、意識の進化の軌跡を記録する記憶という主体の視点の導入である。 とりあえず、以上。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2月28日のコメントのご返事ありがとうございました。
言語で優劣は差別につながるというのは現在の世界情勢で確かにセンシティブなことなのでおっしゃる通りだと思います。 ただ、純粋に言語や意識を思索しようとするとき、日本語や英語、フランス語の違いもそうですし、インドの仏教の『ハンニャーハーラー……』とかいうお経などで果たして世界の真理を表現できてるかと言うと疑問に思います。もっと言うと数学の数式も、コンピュータのプラグラミング言語も、広い意味で言語に分類されると思うのですが、世界の神秘や存在の謎や意識の定義などを的確に表現するに適した言語は数式でもないし、お経でもないし、もしかしたら既存の日本語でもないような気がします。 言語が何故出来たかがそもそも謎ですが、他者とのコミュニケーションが目的なら既存の言語で充分でしょうが、意識の謎を解くためならば日本語であれこれ思索しても堂々巡りになってしまいそうな気がします。 そこで、何か新しい仕組みの言語なりイメージ法なり、意識というハードプロブレムを解く道具をまず創発しないといけないような気がします。 (2024.03.07 08:45:03)
ななみさんへ
コメントありがとうございます。 私は言語が生まれた理由を知っています。 それは、意識/記憶という自己同一性の進化によって人間が持つ自己意識が生まれた事によります。 言語は、この進化した自己同一性を基に、互いが近くによってできる同じ形、そして同じ意味を共有できるから成立し、これを活用する事でコミュニケーションが可能になります。 私は、言語の謎を解くのに、日本人として生まれた事が大いに助けになりました。 だから、日本語で解明した言語の謎を他の言語を使う人たちにも広めたいと思っています。 意識のハードプロブレムは、設定自体に大きな問題があります。 意識は物質でできている脳が、まるでコンピュータのように機能しているという前提に立っていますが、この前提が間違っているのです。 だから私は、意識のハードプロブレムには全く興味がありません。 一言では説明できないので、もしご興味があったら、私のブログを読み返してみてください。 (2024.03.08 00:39:19) |