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カテゴリ:新ソシュール記号学
言語というのは、単なる知識を伝達する媒体ではない。
より重要なのが、言語共同体の持っている価値観を保持するという役目がある。 ところが、今の言語学では、この価値観の存在に関して全く触れることがない。 言語によって価値観が違う事に触れることがタブーになっているようである。 多分、言語の持つ価値観に触れる事で、言語間に差がある事に触れなければいけなくなる為、言語の価値観に触れること自体をタブーにしているのだと思う。 私は、言語の間には明確な違いがあるが、それが言語間の優劣の判断に繋がるものではないと思っている。 価値観とは主観的なもので、科学としての言語学では扱わないと言う事なのだろうか。 どちらにせよ、文法を言語学の中心に据えた時点で、価値観の問題は完全に排除されてしまった。 私がしようとしているのは、記号を二層の価値体系と再定義する事で、言語の助けを借りて人間が構築する価値観を扱える学問を創造する事になるのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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私は言語の間に優劣はあると思います。物を数えるとき『一つ、二つ、いっぱい』という言い方しか出来ない言語では高度な思考をするのは難しいと思うのです。
意識の発生の背景に言語がある一方で、意識や言語の謎を思索するときにどんな言語かで思考の方法も変わると思っています。とくに日本語のように、語尾を曖昧にする傾向や、わびさびなど、微妙な感性を認識している言語では、実存の意味や意義を抽象的に思考するのに適しているような気がします。英語のようなYES NOはっきりさせ論理的なやりとりがメインの言語では、数式的な理解でこの世界や自我の存在の意義をとらえようとするのは困難な気がしてくるのです。 自分という意識の存在の謎を思索するのはどの言語が良いのか、あるいは、今後新しい言語なり、プログラミング言語が意識探究に 必要になってくるような気がします。 (2024.02.28 09:37:47)
ななみさんへ
コメントありがとうございます。 >>私は言語の間に優劣はあると思います。物を数えるとき『一つ、二つ、いっぱい』という言い方しか出来ない言語では高度な思考をするのは難しいと思うのです。 私も賛成します。国によっては数学や科学を英語やフランス語で教えている国がありますが、それは、その国の国語で数学や科学の為の語彙が発達していない為です。 ただ、そういう差を優劣と呼んでしまうと、差別に繋がるという思想があって、そういうアプローチができなくなっていると私は思っています。 >>意識の発生の背景に言語がある一方で、意識や言語の謎を思索するときにどんな言語かで思考の方法も変わると思っています。とくに日本語のように、語尾を曖昧にする傾向や、わびさびなど、微妙な感性を認識している言語では、実存の意味や意義を抽象的に思考するのに適しているような気がします。英語のようなYES NOはっきりさせ論理的なやりとりがメインの言語では、数式的な理解でこの世界や自我の存在の意義をとらえようとするのは困難な気がしてくるのです。 私の思考は日本語の特性によっている部分が大きいと思います。 私は、日本語以外の言語で自分を表現するのも好きですが、人称が決められない日本語の特質が、私の思考のベースになっています。 仰る通り、西洋語では、どうしてもYes/Noという二元論に陥ってしまいますが、日本語の思考スペースだと、曖昧な部分があっても、それを許容する余裕がある気がします。 最終的には、その曖昧さも。Yes/Noという二元論を使って定義する必要がありますが、この余裕がある事は強みだと思います。 >>自分という意識の存在の謎を思索するのはどの言語が良いのか、あるいは、今後新しい言語なり、プログラミング言語が意識探究に必要になってくるような気がします。 私が、このブログを日本語で書いているのは、日本語以外では表現できないからです。私は英語やフランス語を解しますが、ネイティブではないので、自分の思考を十分にっ表現する事ができません。下手したら、誤解を生む可能性もあります。 とはいっても、発想が全く変わってくるので日本語でも十分に表現が難しいです。言語学をするのに、特定の言語を研究しても無駄だという結論に達してしまったので、これを理解してくれる人が出てくるか、全くわかりません。 (2024.02.28 19:40:04) |