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カテゴリ:記憶科学
最近、「意識」という用語を自分の考察で使わない日は無いと思うが、私が意識について考え始めたのは、実は記号の差異の研究を初めてから、十年位は経った後だと思う。
私の研究の出発点は、ソシュールの「言語には差異しか無い」という命題であり、言語と認知の範疇にまたがって考察をしていた。 厳密に言うと、最初は言語現象だけを追っていたのだが、途中からどうしても言語が誕生する前の認知の状態迄、遡って考察する必要が出てきたので守備範囲を広げたという方が妥当だと思う。 しかし、心理学から派生した認知科学は使えない事が既に分かっていたので全く違うアプローチを取る事になる。 言語が生まれる前の認知の状態を考察するのに、私は脳や脳細胞の存在を全く考慮しなかった。 実はこれは、今でも続いている。 だからと言っては何だが、脳科学をしようとしている人とは話が合わない。 そういう意味では「意識のハードプロブレム」を提唱した哲学者チャーマーズ氏とも同様である。 結論から先に言うと、私は「言語には差異しか無い」という命題を使って、我々の住むこの宇宙は、三層の離散的な時空間によって構成されている事を理解した。 それは順番に、物理化学的な時空間、生物認知的な時空間、言語意味的な時空間の三つであるが、どれも差異によって成り立つ時空間である。 「言語には差異しか無い」と言う命題の研究を始めてから、私が注目したのは「音素の離散性」だったが、二つの概念が実は同じ事を指していると気がつく迄には大分時間がかかった。 只、今でも確信は持てていない。 何故なら「混沌からの離散化」のメカニズムの全容が未だ分かっていないからである。 話が少し逸れるが私は言語の研究に関して自分が興味を持つものを取り敢えず集めた後、それらの間の関連性は直ぐには問わなかった。 ジグソーパズルみたいなものでピースがはまるべき位置が分かる迄は自分の勝手な判断は控える様にしている。 私は自分が結論を証明する証拠を集めている訳ではない。 小耳に挟んだ話だが、フランスでの言語学の博士論文は誰かの理論を自分なりに証明するのが目的らしい。 例えば、チョムスキーが英語で語った理論を、別の言語で証明するとかである。 しかし、その言語理論が「完全に間違って」いたら、どうするのだろうか。 私には、そんな無謀な事は出来ない。 私は自分の本能に忠実に研究を続けて来たと思う。 ソシュールの「言語には差異しか無い」が同じくソシュールの記号のシニフィアン(言語の形)にも適用されると言う仮説を、特に確信も無いまま、誰も同意する人がいないまま、ずっと独りで考察し続けて来た。 今、思い返すと、よくやったと思う。 話を本題に戻そう。 「言語には差異しか無い」と「音素の離散性」が同じ起源を持っている訳だが、これにはもう一つ「入れ子構造を持つ文法上の三つの人称」が加わる。 これと同時に「individual(個人)」という概念ではなく「個々人(英語訳:fellow)」という概念の導入を考え始めた。 何故、個人(個)ではなく「個々人(個々)」であるかというと、個人(個)は単独体で属性が定義され、同じ属性を持ったものが集まると一つの集団を形成するが、個々人(個々)の場合は、それらを同じ集団に属させる共通項は何かを定義する事を最初にする。 もう少し、よい説明を考えよう。 今、私ができる説明の一つが「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」という動的なメカニズムである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.02 19:35:24
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