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カテゴリ:記憶科学
混沌からの離散化を促す「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」と言う自己同一性の進化の動的なメカニズムが、この宇宙の摂理である。
これを知っているのは、現在、多分、世界中で私だけだと思う。 私が間違っていたら、それまでだが、もし私が正しかったら、今現在、人類は何も知らない事になる。 中世のヨーロッパでカトリック教会の権威に反して地動説を唱えたガリレオは、今では偉大な科学者として認識されているが、彼自身は、後世になって自分の考えが認められた事を知らずに亡くなってしまった。 私が解明した言語の真のメカニズムは、ガリレオが見つけた地動説よりも、より本質的である。 言語と言うものは実は非常に厄介なものである。 何故なら、言語のメカニズムを知らなくても、ヒトから人間になった個体であれば、誰でも言語を使いこなす事が出来るからであり、この為、言語の真のメカニズムを知らないのに、言語についての哲学的な考察をしてしまう人間が無限に発生する事になる。 人類の個体であるヒトが、「認知的な記憶の蓄積が形成する混沌からの離散化」と言う「意識(自己同一性)の進化を推進する動的なメカニズムの発動」を経て、初めて人間になって以来、人類史上、このメカニズムは解明されていなかったが、スイスの言語学者ソシュールによって解明の糸口が示された。 それはソシュールの弟子達が師の功績を後世に残そうとして著した「ソシュールの一般言語学講義」の中にある「言語には差異しか無い」と言う命題である。 ところが、ソシュール自身は、この命題を、記号のシニフィエ(言語の意味)には適用したが、シニフィアン(言語の形)に関して適用していない。 しかし、これは直接のソシュール批判にはならない。 彼が晩年にしていたアナグラムの研究は「言語には差異しか無い」と言う命題の落とし所を彼自身が探していた可能性を示唆している。 ソシュールは「音素が言語の最小単位である」という言語学の一般常識を否定しきる事が出来なかったのだと思う。 音声言語の音韻体系を構成する個々の音素の自己同一性が、ミニマルペアと言う聴覚的な記憶を時空間に平行に並べる事によって確立されるのを考えると、「音素は言語の最小単位である」と言う言語学の一般的な命題は、ソシュールが提唱した「言語には差異しか無い」と言う命題と矛盾すると私は考える。 一般的に音韻論では、特性の言語の音韻体系を構成する「数と種類が限定された構成要素」つまり音素を、先ず「音素を母音と子音という二大カテゴリー」に分類し、母音と子音同士の其々の関係性を音声学的な視点から発声器官の特定の部位の特性をパラメータにして、其々、一つの表と言う形で示される。 音素の内、音節の核となる母音を表す図は、口の開き具合を縦軸、舌の前後の位置を横軸にする事で、母音のバリエーションが図示される。 これに対して子音の場合、上下の唇がくっつくか、舌先が口蓋にくっつくかどうか、或いは、清音か濁音であるかと言った区別を、一つの表に纏める事で図示される。 これは、音素を、音声言語の最小単位であると定義し、先ず音素を、母音と子音と言う二大カテゴリーに分類した後で、母音と子音の其々の全てのバリエーションを、音声学のパラメータに従って一覧表と言う形で図示しているのだが、実際の発話を構成する音素同士の関係性は、全く考慮されていない。 例えば、母音と子音と言う音素の二大カテゴリーは、音節と言う母音が核となって成立する音声学的な単位が、時間軸に沿って前後に二極化していると我々、話者が認識する事によって初めて成立するのであるが、音韻学では母音と子音と言う二大カテゴリーは所与であり時間軸上の順序は殆ど考慮されない。 ここに「言語には差異しか無い」と言う命題を導入すると、個々の音素の自己同一性を確立する筈の差異が、どの様な構図の下に成立するのかを考察せざるを得なくなるが、私は特定の音声言語の音素を弁別する為に、二つの単語を時間軸上に平行して並べる聴覚的な記憶操作であるミニマルペアに注目した。 私がミニマルペアの研究で得た結論は、音素を二つの異なる単語を、時間軸上に沿って前後を考慮して平行に配置する事で確立するミニマルペアが成立する為には、音声言語を使う人間が、一つの認知的な単位の内部構造に関して、時間軸上に沿った前後の順序立てを認識している必要があると言う事である。 ソシュールは音素を音声言語の最小単位であると前提する事によって、音素と言語の意味の間には必然的な動機付けが無いと言う「記号の恣意性」を提唱したが、音素は記号のシニフィアン同士の比較対照で生じる前後関係の差異によってのみ自己同一性を維持していると考えると音節の二極性が重要になる。 そこで私が考えたのは、音声を短く区切って成立する音節の二極性は言語を操る人間だけが持っている特性であると言う事で、ここから記号の恣意性に代わる概念として「記号の離散性」を考え始めた。 何故、離散性かと言うと、音素は違いに離散的な関係の下に、全体として音韻体系を構成しているから。 通常、音素の離散性と言うと、日本語の「か/が」と言う「静音/濁音」のペアを聴き取りの際に話者は必ず「か/が」のどちらかの子音を離散的に選択し、二つの子音の中間の音素は無いと言う事になるが、私の考える音素の離散性は、先ず第一に、音節を前後に二極化して子音と母音に分節する事である。 この「記号の離散性」と言う視点を持ち込むと、音声が母音を核とする音節に時間軸上に順番に分節され、音節同士の前後の比較によって母音の自己同一性が確立され、音節が前後に二極的に分節される事によって母音に対する子音が生まれ、音節同士の比較によって子音の自己同一性も確立される事になる。 音韻体系を構成する音素と言うのは発話を構成する音声を時間軸に沿って前後に音節>音素と言う形で二段階に階層的に分節する事で、他の音素との位置関係が確立され、時間軸上に展開する座標という形で並ぶ事によって、個々の音素の特性が確立され、其々の存在つまり自己同一性が確立される事になる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.11 22:56:03
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