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カテゴリ:記憶科学
言語のメカニズムを解明しないままで哲学するのは、いつまで経っても堂々巡りで出口が見えないと私は考える。
それでも西洋の哲学者達は、西洋の哲学的な伝統に沿って、今の時代を代表する哲学者として歴史に名を残したいのだろうと思う。 終わりの無い哲学的な思想に新しいページを刻むだけなのに。 西洋哲学の世界で問題になっているかどうかは分からないが、言語のメカニズムを理解したかどうかを判断する為には、音声言語と手話と言う二つのタイプの言語が、どの様にして聴覚発声と視覚身振りと言う二種類の知覚運動チャンネルに特化して生まれたのかを説明出来るかにあると私は考えている。 音声言語と手話のどちらも現在の言語学では一応、正当な人間の言語であると認定されてはいるが、二種類の知覚運動(聴覚発声と視覚身振り)チャンネルに特化して生まれた、これら二つのタイプの言語が、同じ人間の言語であると言う証明は言語学ではなされていないが、私はそれを既に証明済みである。 言語学に於ける最大の問題は、手話と音声言語と言う「二種類の知覚運動チャンネルの特化して生まれた二つのタイプの言語」に共通するものは何であるかを探究すると言う視点を持っていない事だと思う。 音声言語の研究から得られた成果を、手話の研究に適用するのが一般的な手法になっている。 そうして生まれたのが「(音の無い)手話の音韻論」であるが、これを提唱したアメリカの言語学者ストーキーは、音韻論ではなく「Cherology」を最初に提唱したのだが、結局は音韻論にしてしまったと言う経緯がある。 「Cherology」を訳すと「手指による言語の形の価値体系」になると私は考える。 米国の手話言語学の父とされるストーキーの「Cherology」をフランスの大学でChristian Cuxac 先生の手話言語学の授業で知ったのだが、これに代わる全く別の「視覚身振りチャンネルに特化した記号のシニフィアン(言語の形)の手話に於ける価値体系」がどう言う形で実現出来るのか考察を続けて来た。 音声言語の音韻体系を構成する「数と種類と限定された音素」を、二つをセットにして弁別するのがミニマルペアと言う記憶操作であるが、音素の弁別は音韻体系を構成する個々の音素の識別ではない事を明記する必要がある。 ミニマルペアは、二つの音素の存在を互いの差異によって顕示するだけである。 音素の弁別が、二つの異なる音素の存在を互いの差異によって単に確認すると言う記憶操作であるのに対して、音素の識別と言うのは、国際音声記号表によって予め記述されている母音と子音の中から適用するものを選択し、それに割り当てられた発音記号を使って該当する音素を記述すると言う作業である。 「全ての音声言語の全て音素」を列挙した国際音声記号表は、しばしば元素の周期表に例えられる事があるが、これは音韻論も化学も其々の分野の現象の観察の上で、どちらも構成要素としての最小単位を定義して、その単位同士の違いを際立たせる属性を定義すると言うアプローチをとっているからである。 人類の個体が持っている音声を繰り出す発声器官には自ずから制約があり出せる音の種類には自ずと限りがある。 我々が外国語の発話を耳で聴いて曲がりなりにも自分の母国語の音韻体系を構成する音素を用いて再現できるのは、音素の種類が我々人類に共通な発音器官の特徴によって決められているから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.17 18:50:16
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