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カテゴリ:記憶科学
私は最初から「言語はコミュニケーションの道具である」と言う定義は、間違いではないが言語の本質とは違うと考えていた。
言語を使ってコミュニケーションが成立する為には、同じ「言語の形」と同じ「言語の意味」を互いに共有できなくてはならないのだが、これに関する考察が完全に抜け落ちている。 言語の形と意味をどうやって共有できるかであるが、結論から先に言うと「波動の蓄積によって生成される混沌からの離散化と言う動的なメカニズム」によって共通の離散的な時空間が確立されるからである。 では、言語に関して何が混沌であるかと言うと、個人の認知的な経験による知識の蓄積である。 「混沌からの離散化」と言うメカニズムは言語を操る人間の誕生の前に宇宙と生命の誕生にも直接関わっている。 宇宙の誕生から、認知主体としての生命体でもある我々人間が言語を使って文明を築いている現在迄の歴史「ビッグヒストリー」の背景には一つの共通の動的メカニズムが働いているのである。 個人的な経験と知識が何故、波動であるのかと言うと認知とは半全自動の連続的な過程であるから。 認知とは認知主体である生命の個体が外界の物理的な刺激を知覚し反応すると言うのが基本だが、過去の認知の経験が記憶されると、これを喚起して比較する事で反応運動の効率が上がり、知能が誕生する。 認知プロセスは、外界の知覚、相似する記憶の喚起と比較、反応運動の決定と実行が基本であるが、どれもシームレスに連続している。 知覚は、待ち受け状態に物理的な波動が飛び込んで来る過程である。 また、知覚された物理的な波動と相似する記憶の喚起は、個体の意志によらず自動的に行なわれる。 認知プロセスの前半、知覚と記憶喚起は、全て自動的に進むのであるが、次の「反応運動の決定と実行」で、個体の好み、つまり「快か不快かと言う基準」による個体の判断が介入して来る。 これは、生命の誕生と同時に、知覚と反応と言う認知システムを確立させた「自己意志の発動」が背景にある。 自己意志の発動の母体となったのが自分と他者との境界線を確立する事で発動した自己存在であり、これによって物質に満たされる宇宙空間が誕生した。 自己存在、自己意志の次に発動するのが自己意識であるが、この連鎖する三つの発動には全て「混沌からの離散化」と言う動的メカニズムが働いている。 自己意識というのは、我々人間が、個々人の認知的な経験によって蓄積された連続的な認知的な記憶を基礎として発動させたものである。 認知システムでは、その場限りに発揮されるだけの知能が、自己意識が発動すると、知識と言う離散的な形で存在可能になる。 この依代となるのが「記号」である。 記号と言うのは勿論ソシュールが提唱した概念であるが私の解釈は従来のものとは大きく異なる。 言語の形と意味に対応するシニフィアンとシニフィエと言う二層の独立した価値体系の、其々の特定の座標点が一致する所に特定の記号が成立すると言うのが私の解釈で、記号に変えて「記憶子」と命名した。 「記号」と言う単語は、「ソシュールの一般言語学講義」に出て来る仏語の「signe」と言う用語の日本語訳であるが、私が「記号」に代わる「記憶子」と言う造語をしたのは、私の記号の新解釈と元々の仏語の用語との間に、埋める事の出来ない非常に大きな概念の隔たりが生じてしまった為である。 ソシュールの「記号」は、我々の記憶操作によって確立されると私は考えるのだが、記号と記憶と言う二つの単語に「記」と言う漢字が共通してある事は、私にとって非常に興味深い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.06.11 01:26:12
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