7743444 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ワルディーの京都案内

ワルディーの京都案内

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2017/08/26
XML
テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:常駐ガイド
2017年8月26日(土)】

 下鴨神社ガイド第7日目でした。

 このシリーズ、初の当日責任者でした。ガイドをしながら見てきた部分も分かっているようで分からないところがありました。うっかり部分もありました。しかし、いっしょに勤務の方々に色々教えていただきながら、何とかこなすことができました。皆さんに感謝です。

 特別参拝所で時々立ち見が出るほど、多くのお客様にお越しいただきました。助かったのは、暑さが和らいだことでした。京都の最高気温は31.0度と昨日より、3.5度低かったです。


●三井神社エリアでの案内 その2 三井神社

 前回紹介した唐門(こちら)を入ったところに鎮座するのが、三井神社です。
 
三井神社

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/26728344.html

 3つの社殿を合わせて三井神社です。下鴨神社の摂社にあたります。摂社とは、主祭神と関係の深い神様をお祀りした神社です。

 中社には 賀茂建角身命(かもたけつみのみこと)、東社(向かって右)には伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)、西社には玉依媛命(たまよりひめのみこと)が祀られています。中社と西社は本殿と同じご祭神ということになります。本殿には賀茂建角身命はお祀りされていませんでしたが、この三井神社では、親子三神が並んでお祀りされていることになります。

 寛永5年の造替で、国の重要文化財に指定されています。
 
 「山城国風土記」逸文に、蓼倉里三身社(たでくらのさとみいのやしろ)、「延喜式」三井ノ神社(みいかみのやしろ)とある神社です。

 奈良時代から平安時代にかけてこのあたり一帯は蓼倉郷(たでくらごう)と呼ばれていました。三身社の三身とは前述の祭神三神のことです。


 三井神社の西にある3つのより小さな神社は末社です。神社名とご祭神は、

 北 諏訪社(すわのやしろ) 建御方神(たけみなかたのかみ)
 中 小杜社(こもりのやしろ) 水分神(みくまりのかみ)
 南 白髭社(しらひげのやしろ) 大伊乃伎命(おおいのきのみこと?) 
                      別名 猿田彦神(さるたひこのかみ)

 です。

末社の三社

http://blog.livedoor.jp/myacyouen-hitorigoto/archives/26728344.html


 平安時代の下鴨神社社頭絵図・鴨社古図に描かれている神社です。各社の位置などは現在なお変わりません。これらの神社は糺の森を禁足地とし、ご社殿前の斎庭の葵草と苔庭など自然のなかに祀られる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です。白髭社には賀茂斎院歴代斎王神霊社(かものさいいんのみたまのやしろ)が合祀されています。歴代斎王の神霊は、元当所の西方にあった賀茂斎院御所に祀られていましたが、文明の乱-1407-により焼失、その後、糺の森の鴨社神宮寺境内に遷座していました。それを、昭和元年頃白髭社に合祀しました。いずれも重要文化財に指定されています。

 三井神社、末社の三社とも檜皮葺きの屋根を持った一間社流造です。






(以下、2017/9/9追加)

 三井神社エリアの南側のガラスショーケースには、いくつか展示物があります。

 東側には、明治天皇がご幼少のときに使われた木馬の複製が置かれています。天皇家は明治維新以前は京都にいらっしゃいましたので、明治天皇は幼少期を京都で過ごされました。乗馬を糺の森の馬場でされましたが、その練習用の木馬です。馬の操縦よりも、馬の高さに慣れたり、高い馬に乗る練習用だったと思います。

 西側には、3つの横長の絵が展示されています。木の板に描かれた一種の絵馬です。

 上2つが明治33年に描かれたもので、上が御蔭祭を描いたものです。御蔭祭は下鴨神社で葵祭(5月15日)に先駆けて5月12日に行われる祭礼です。比叡山の麓、上高野にある下鴨神社の境外摂社、御蔭神社に荒御霊(あらみたま)を迎える神事です。帰りには白い神馬に荒御霊が乗せられて下鴨神社にお着きになります。絵には、荒御霊を載せた白い神馬も描かれています。





 真ん中の絵が、葵祭を描いた絵です。斎王の制度は鎌倉時代に廃絶になり、斎王代は昭和31年に創設されたので、この絵には描かれていません。

 下の絵は幕末に描かれたもので、文久3年(1863)の孝明天皇の上賀茂・下鴨神社への行幸が描かれています。行幸の目的は攘夷祈願です。攘夷には反対の立場をとっていた徳川幕府ですが、朝廷と手を取り合って国難を乗り切るための公武合体を実現するためには、当時上洛をしていた徳川家茂が、孝明天皇の賀茂行幸のお供をするのもやむを得ないと考えました。絵の中には、孝明天皇の乗った鳳輦や、この徳川家茂、そして後に徳川幕府最後の将軍になる、一橋慶喜の姿も描かれています。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

-------------------------------------------------------------------
よろしかったらぽちっとお願いします。

にほんブログ村 旅行ブログ 京都旅行へ
にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019/06/07 08:13:42 AM
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

ワルディー・ヨーリョ

ワルディー・ヨーリョ

フリーページ

カテゴリ

カレンダー


© Rakuten Group, Inc.