|
カテゴリ:記憶言語学
言語の定義を、もっと掘り下げてみようと思う。 人間というのは、周囲の物理的環境が推移しても(朝が来て夜が来、季節が巡ること)、自らの存在を支える生物的環境が変化しても(自分の身体が成長し最後は衰えること)、自分は同じ存在であると自覚する存在であるといえる。つまりアイデンティティーを持った存在である。このアイデンティティーというのは、個体の記憶ということになる。 このアイデンティティーは、常に同じわけではない。まず個人レベルで、このアイデンティティーを言語習得を通じて獲得し、言語活動を通して更に進化させる。言語は言語的共同体を通じて維持されるのだが、個人レベルでの進化が、同時に集団レベルでの進化につながる。ソシュールが「パロール(le parole)」と「ラング(la langue)」に分けて考えていたのは、彼がこれに気づいていたからかもしれない。 ただ、言語的共同体全てがアイデンティティーの進化を促進するものではないことが最近分かってきた。その代表的な例がピダハン語だ。彼らの文化の中に進歩といわれるものはない。しかしそれは、ピダハンが「弱い」言語共同体であることを意味しない。彼らは、新しい文化の誘惑に乗ることなく自分たちの言語と文化を守ってきた。彼らの身体が、幼いときから常に鍛えられているということも、新しく入ってきた文化(ポルトガルやアメリカ)の文化や宗教を受け入れる必要性がない理由のひとつになる。 マルクスの唱えたプロレタリア独裁も一種、アイデンティティーの進化を阻害、更には否定するものなのかもしれない。現在、世界で共産主義国家を名乗る国の多くが独裁国家である。これは個人のアイデンティティーの進化を、特定の個人が集団の名の下に拒否したことに起因していると思う。そして、元から伝統的にあった専制政治を共産主義の名の下に行うのである。共産主義の中国も北朝鮮も、結局は清朝と李氏朝鮮の後を引き継いだに過ぎない。(韓国は一見、自由主義国家のように見えるが、実は北朝鮮と似たり寄ったりであることは、一般の日本人にも知れ渡り始めてきている。) 少し話がそれたが、言語的個人と言語的集団の間の関係において、どちらを優先するかということが、前世紀の冷戦構造を作ってきたといえる。しかし、言語学的個人を尊重するのが自由主義陣営で、言語学的集団を優先するのが共産主義陣営という二元論はあまりにも単純化された見方である。自由主義圏で、言語的個人を優先させようとする人は、所謂左翼であり、言語的集団を優先させようとする人は右翼であるという社会的対立があり、国内でも大きく揺れている。 共産主義圏では、こういった意見の対立は国のあり方からして存在しないのであるが、反政府勢力が単に民主化勢力となるともいえない。仮に反政府勢力が今の共産主義政府を倒したところで、その新しい勢力が結局は単に次の王朝を起こし専制政治を継続してしまう可能性が大だからである。結局は、言語的個人が、どれほど民主主義を受け入れるだけの素養を持っているかが大きく関与してくるのである。 私は日本人と日本という国は、この個人と集団という二つの極が非常にバランスの取れた状態で、個人と集団、双方のアイデンティティーの進化を促しているではないかと考えている。日本は、道理的にも他の言語的集団と比べて格段に優れていると思う。これは、日本人優性論ではない。これは、日本人一人一人が思いやりの心をもって、生きているからに他ならない。そして、日本人と日本国の持つ素養が、世界各国の模範、つまり国際スタンダードになる可能性があるということである。 日本は変な国というレッテルをずっと貼られてきたが、実際に日本に来たり、住んでみた人たちの多くが、日本人が造る日本国の素晴らしさを実感している。もし、自分たちの国を少しでもよくしたいと思う心があれば、日本人のまねをしようと思うのは当然なことである。実際に、交番制度を導入したり、学校での児童生徒による清掃を取り入れている国もある。日本語を学ぶことも、最終的にはそれに直結する。 言語の定義から始めて、かなり話はそれたが、逆にいえば、言語の問題を突きつめると、国のあり方にまで発展するということである。今までの言語学は、この部分をタブー視してきたが、私の考える記憶科学ではこれを前面に出すことにより、よりダイナミックな学問になるはずであるという確信がある。ただ、前体制に属する人たちは、記憶言語学や記憶科学を受け入れることを潔しとしないかもしれない。まだ先が見えないが、このところが近い将来、問題になる可能性が非常に高い。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.10.27 04:57:52
コメント(0) | コメントを書く
[記憶言語学] カテゴリの最新記事
|