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カテゴリ:アイデンティティー
もう十何年も前の話になるが、学校の言語学セミナーでフランス人の担当教官から「感情というものは、人間特有なものではなく動物も持っているものとする研究がある」と聞いたことがある。「感情」というと「喜怒哀楽」が代表的なものだが、こういうものを動物も感じているというのだ。
こういう指摘があったのには理由がある。言語学では、感覚や感情の表現を研究の対象にすることがよくあるのだが、どれが人間に特有なものであるのか、あまりはっきりと定義されないままに議論が進むのを見て、先生がそういう話を持ち出したのだ。 当時は、それに対してそんなものかなとあまり真剣に考えることはなかったが、最近になって先生のその発言が重要な意味をもってくるようになってきた。そして、動物の持つ感情がもしかしたら記号の二極構造を作り出しているのかも知れないということだ。 ただ、ここで私が「感情」とするのは所謂「喜怒哀楽」ではない。既にこういう「名前」がついてしまっているものは、そのまま使えないからだ。私は感情を「個体の欲が満たされるかどうか」という点に関して定義する。食欲に対して食べ物が与えられれば満足になるし、腹を空かしていて食べ物が無ければ不満足になる。 この「感情」は、認知行動において非常に重要な役割を果たす。つまり「満足」したいように個体は行動するということだ。動物を調教するとき、必ず餌を与えるのもこれに通じる。調教が進めば餌を与える必要はなくなるが、全く「御褒美」のない調教は不可能だろう。チンパンジーに手話を教えた実験でも、これを推進した学者の最終的結論は「手話を使うように見えた行動は、単に食べ物を入手するための行動」に他ならないというものだった。 認知行動においては、過去の記憶に照らし合わせて判断することによって、より効率のよい判断をすることが可能になる。ただ、ここで重要なのは、動物は自分の意思で特定の記憶を喚起することができないということである。個体が過去に経験した記憶の中で、今自分が直面している状況と近い状況の記憶が、自分が満足したいという欲求に引っ張られて呼び出され、それと照らし合わせて自分の満足度が高い選択肢を選ぶのである。 とはいっても、この「擬似知性」は、様々な要因に左右されるため個体差が激しい。チンパンジーの研究で有名な松澤先生も、特定のチンパンジーを中心に実験を行っている。一番有名なのが「アイちゃん」だろう。このメスの個体の特徴は、非常に好奇心が強いということらしい。でないと実験に集中できずに直ぐに飽きてしまうのだ。 認知行動のレベルの知覚から行動にいたるまでの一連の流れは常に一方通行である。同じ個体の体内を利用しているという点においては「1つのサイクル」といえるかもしれないが、認知している個体にとって知覚情報は常に更新されており、一方的に流れていく。 ここに「離散化原理」が働くと「シニフィアン」と「シニフィエ」という二層構造を持った「価値のシステム」が生まれるのだが、このシステムを支える二極構造を「満足/不満足」という認知行動の動機付けとなる二項対立が核になっていると考える。一方的な流れであたものが「循環するサイクル」として平衡を保つのである。 この「満足/不満足」という「感情」の持つ「親和力と反発力」が、記号間の「離散性」を支えることになる。「記号」は、まず「自分/非自分」という区分という形で成立する。自分と自分でないもの、この2つの関係は「似ているが、異なる」という「離散性」を持っている。 記号が価値の体系であるというのは、常に「A:Ā」という形で、自己と非自己の対立関係によってのみ定義されるということから来ている。「シニフィアン」では「知覚的座標を持った価値のシステム」であるが、聴覚言語の場合のシニフィアンは「音韻体系」でなり、視覚言語の場合、手話話者の体が座標の軸となり、手や顔の動きが座標間の移動となることでシニフィアンとして成立する。 物理現象としての知覚に支えられることで、本来は「自己/非自己」の差でしかないものが、座標を持ち他の個人との共有も可能な「形」をもって存在する。ここで一番重要なのは、この形は、時間の流れを切り取る形で成立するものであるということである。音韻体系は発音記号で表示されるようになるが、これはこの時間の流れを無視するところから生じる。聴覚の形では、構成要素が一列に並ぶように見えるため、この誤謬が「表音文字」の発明につながることになる。 一方「シニフィエ」という所謂「意味」も、やはり「自己/非自己」の差でしかない。例えば、右は左の反対、左は右の反対という堂々巡りが意味という現象の根幹にある。単純なものから、複合的な意味に発展するにしたがって単なる「自己/非自己」の差とはかけ離れたものとなっていくが、基本は「自己/非自己」の差であることを忘れてはいけない。 人間の意識が「記号が成立した認知、つまり知覚・記憶喚起・反射(判断行動)サイクル」の上に成り立っているとすると、「記憶喚起と反射」を起こす動機付けとなる「満足/不満足」というパラメータが、何が「自分で」、何が「自分でない」かの境界線として使われることになる。となると記号の発展形である「アイデンティティー」の形成にも、自分の好き嫌いという個人的な感情が作用することになる。 我々が、自分が同じと見なすものが構成する集団の中にいて居心地がいいのは、アイデンティティーの基本に「満足/不満足」というパラメータがあると考えると納得がいく。別の言い方をすれば、私たちが使う意味というものは、我々の動物的な感情がその根底にあるということである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.12.09 06:59:34
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