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カテゴリ:個人の記憶、集団の記憶
基本的人権という言葉が日本に普及して久しい。 これに対して、個人ではなく、人の集団に関して権利が発生するのだろうかと最近よく考える。(福沢諭吉先生の「権理」の方が私は訳語としては適切であると思う) 日本人は、集団になって行動することのメリットを十分心得ている。集団意識が過度に発揮されることもあるが、これが日本人の国民意識の根底にあると考えていいだろう。日本人の国民意識の誕生に関しては諸説あるようだが、やはり天皇の存在が大きいのは否定できない。 人は独りでは生きていけない。だから、家族や同族、地域社会なのの共通意識をもとに集団を形成する。しかし、この集団意識が「国民(ネーション)」という域にまで達する民族は世界中では少数派だといっていいだろう。 特定の地域の中で、誰かが大将になる権利を持っているのであれば、その大将に力ずくでもなろうとする個人が出てくることは当然なことである。こうなると基本的人権など論外になるのは目に見えている。 集団になって国を作ることは、今の国際社会では1つのスタンダードである。欧米の植民地支配への反省から出てきた一つの教訓ではあるが、このために国民不在の国が乱立する状況となっている。 今までの世の中は、集団が個人の生存を脅かすことがまかり通ってきた。基本的人権という考え方は、これに対して生まれたといえるだろうが、集団であることがあくまでも悪であるという考えはどこか歪んでいる。 特に日本の中では、サヨクと呼ばれる人たちが、日本という国の存続さえ危うい目に合わしても、自分たちの主張する権理を通そうとする。国がなくなってしまったら、個人の権利など無きも等しいのだが、それが全く分かっていない。 個人と集団というのは、実は切っても切れない関係にある。個人の人権だけを主張するのは、社会の歪みを助長するだけになりかねない。集団であることは権利ではないだろうが、ここに新しい個人と集団の関係を論じる必要があるように思う。 これは私が長年に渡って抱いていた基本的人権に関する疑念に対する一つの答えである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.09.27 00:41:26
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