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カテゴリ:コミュニケーション
現在の言語学には1つの不文律がある。それは「全ての言語は平等である」ということ。 これは、言語を、それが通じる範囲、つまり言語共同体内でのコミュニケーションのための道具とし定義しているからである。言語というのは、共同体を運営するためのプログラムであるとするならば、確かにこの定義は成り立つが、この結果として、現在の言語学は「文法言語学」に成り下がってしまい、人類の本質を突き詰めようという姿勢は始めから失われてしまった。 また、言語を平等ではないとすると、人種差別と同様に「言語差別」という悲劇が起きることを予想して、それを防ごうとしたのではないかと私は推測する。例えば、英語を使う人間は、日本語を使う人間よりも価値があると言った具合である。 言語が平等でないというのは、まず単純に考えて、ある言語で高等教育を受けられるかどうかという基準によっても明らかである。 欧米や日本では、多くの高度な学問、特に科学分野において自国語で学ぶことが可能であるが、発展途上国と呼ばれる国では、始めから外国語(英語、フランス語、ロシア語等)を利用せざるをえないという現状がある。 グローバリズムの世界であり、外国語で学ぶことに何の問題もないだろうと考える人達もいるだろう。しかし、外国語でしか勉強できないということは、外国語を勉強できる環境にいる子どもたちだけが、高等教育の恩恵を受けることができるということになる。 もうひとつ不平等を生む大きな違いは「価値観」の差である。しかしこれは非常に判定が難しい。価値観が違うからと言って単純に優劣をつけることはできないからである。 例えば今、少しずつであるが「日本型民主主義」という概念が生まれ「欧米型民主主義」と対比されることが多くなっている。そして「日本型民主主義」は、日本語を使う日本人達が実現しているのである。 「アメリカ型民主主義」では、選挙をして選ばれた人間が国を治めればそれでよいという発想である。これは、一種、人民に対する盲目的な信頼があることの裏返しである。しかし世界には、自分だけが良ければ他人はどうなってもいいと考えている民族がわんさかいるのである。その典型的な例が、支那と朝鮮である。中国と北朝鮮と韓国の政治を見てもらえば、いちいち私が説明することもないだろう。疑問がある人は、ネットで調べてみることを勧める。私も、少し前までは、これを知らなかったから。 言語が不平等だからといって、より発達した言語を単に身に付ければいいというわけではない。なぜなら言語はアイデンティティーと対になっているからである。外国語を学ぶことで、大きな知識への扉が開かれる場合もあり、これは非常に有用なことであるが、それだけでは、その言語の持っている文化や価値観を身につけることにはならない。しかも、複数の価値観を1つの意識の中に持つ状態、いわゆる「バイカルチャー」という状態は非常に不安定で、危険でさえあるのである。 「言語は平等だ」という思想は、形を変えて「言語は多様だ」という表現になっている。チョムスキーが、絶滅に瀕している言語を救おうと躍起になっているのも、これの現れである。 私も「言語は不平等だ」という結論には達したが、まだこれから具体的に何をしなくてはならないか試行錯誤の最中である。しかし、嘘は嘘。現実を見つめることからしか真実は生まれてこないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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佐藤さんの主張は、優れた言語と、
そうではない言語があると言う事ですね。 以前見たテレビ番組ですが、具体的な国名は忘れました。 東南アジアでは、英語あるいはフランス語が話せなければ 授業が受けられない。 こんな事をいっている番組がありました。 つまりそれらの国の言葉では、欧米の科学技術の専門用語を、自国語に翻訳できないそうなのです。 その為に東南アジアの国々では、 学校の授業は英語かフランス語で受けるといっていました。 日本人には優れた言語がある。 だから欧米のどんな専門用語も、日本語に翻訳できる。 だから、日本の授業は英語を必要としていません。 逆に日本人は、いつまでたっても英語が上達しない。 こんなことを言っていました。 佐藤さんが言われる、言語の上下論はこう言う意味ですか? もし、間違っていたら、ご連絡をください。 (2015.11.17 07:19:11)
ともちゃんさん
日本語が類まれなる言語です。 しかし、そうだからと言って日本語を話す日本人が一番偉いということにはなりません。 言語は不平等である現実は受け止める必要がありますが、それが単純な序列にはなりません。日本語が優れているから、日本に皆従えということではありません。 日本人は、今までの日本人が築き上げてきた歴史や文化を更に発展させる使命を負っています。そういう意味で日本人に課せられた責任は大きいのです。そしてそれを果たすために今後も戦っていかなくてはなりません。自分だけのための目先の利益にとらわれてしまっては日本人失格なのです。そして、その成果を全人類と共有するのです。このためには、大勢の人達と共同作業していかなくていはいけません。日本人だけでは、その使命を果たすことはできないからです。 ただ、日本の回りには見方ばかりではありません。日本を敵とすることで成立している国が、ちょうど隣に三国あります。しかし、彼らの存在も日本人が成長せるためには必要なのです。そういう意味で、日本人は、闘志を内に秘めたいじめられっ子なのかもしれません。 日本人が英語ができないのは、日本を囲む海が強固な自然な国境であったように、精神面での国境として働いています。全てのことを翻訳することができる語彙と思想を継承しているからこそできる芸当です。 この点、フランス語も似ています。最近は英語のできる若者が大分増えましたが、英語とは違う思想を十分に発揮出来るだけの文化的厚さがあることで、英語的思考の侵略に対抗しています。北欧やオランダなどは、元々英語と親和性が高いこともあって、もう英語との併用を完全に受け入れてしまっています。自国の言葉で世界に発信することをやめてしまった民族なのです。 言語不平等論は、少し間違えると、言語による差別に発展する危険性を持っています。しかし、現実は現実なのです。そこに目をつぶっては、新しい未来は見えてこない、私はそう考えています。 (2015.11.17 11:31:01)
最近は、アメリカでも、「黒人」と言う言葉を使いません!
日本のテレビでは、「アフリカ系アメリカ人」 と言う言葉しか聴きません。 アメリカでは人種問題にピリピリしているような印象です。 DNAの分子構造を発見したワトソンは、 2007年の人種差別発言で、教職を追われました。 黒人は、白人より知能が劣ると言ったそうです。 黒人は我々モンゴロイドよりも、 はるかに体力が勝っています。 オリンピックの陸上競技を見れば、それは歴然としています。 これは、客観的な事実です。 これを言ったからと言っても、だれも怒る人はいません。 同じように、知能と言う意味では、 我々モンゴロイドの方が、黒人より勝っています。 オリンピックの金メダル競争では負けたけど、 ノーベル賞競争では、我々の方が勝っています。 これも、誰も否定しようの無い事実です。 ワトソンは生物学者です。 こう言う客観的な事実を言っただけだと思います。 でも、彼は教職を追われました。 欧米の学者は、人種問題には、 腫れ物に触るようにしています。 特にひどいのが人類学です。 人類は、すべて平等だと言っています。 それは遺伝学的には、間違っています。 人類はアフリカから出て来ました。 アフリカの黒人と言っても、 チンパンジーに近い人種がいます。 そしてまた、我々人類に近い黒人もいます。 アメリカの黒人は、我々にかなり近いのです。 彼らから見れば、我々との距離は1m。 チンパンジーに近い黒人までの距離は10m。 遺伝的に見ればこれが真理です。 しかし人類学者は、これを発言したがりません。 欧米には無理やり「平等」へ持って行く風潮があります。 「言語の平等性」も同じです。 「人類はみな平等」 これを歌い上げる為に、 無理やりにそのように持って行きます。 「学問」は「人類愛」とはちがいます。 客観的な事を覆い隠し「嘘」を教えていたら、 そのうち大変なしっぺ返しにあいます。 (2015.11.17 16:28:49)
ともちゃんさん
>「学問」は「人類愛」とはちがいます。 >客観的な事を覆い隠し「嘘」を教えていたら、 >そのうち大変なしっぺ返しにあいます。 私がこのブログをつけはじめたのも、言語学の嘘が問題だと思ったからです。言語が平等であるという嘘もそのうちの一つです。 私は、ワトソンさんがいうように黒人の知性が人種的に白人よりも劣っているかどうかはわかりません。しかし、彼らの持つ文化や言語環境が彼らの知性の発展を阻害していることは認識しています。 モンゴロイドがノーベル賞をとっているといっても、これは日本人と台湾人だけの話です。今年辛うじて中国人が一人、医学部門で受賞しました。韓国に関しては全滅です。なのにあの国の人間はノーベル賞に対するこだわりは日本人なんか比べ物になりません。 中国人と韓国人と日本人、今の研究では人種的にかなり違うことが分かってきていますが、とりあえず同じ黄色人種として、この違いは、文化と言語にあります。日本には、何事も興味を持って取り組み、最後までやり遂げるという気質があります。それに人のために何かをしたいという気概も人一倍持っています。これに対して中国人や韓国人は、自分の目先の利益しか考えていません。こういう人達にノーベル賞級の研究は無理なのです。 折り紙というのは面白い文化のバロメーターだと思っています。紙を発明したのは支那文明ということですし、今の中国にも伝承としての折り紙は伝わっているのですが、芸術として発達したのは日本です。朝鮮は論外です。折り紙のもうひとつの極としてヨーロッパがあります。布ナプキンのたたみ方が歴史上発達していますし、教育用分野での応用もありますし、第一「伝承折り紙」が存在しています。 その次に出てきたのがアメリカです。今では日本を凌ぐ勢いで発展しています。それから、少し遅れて東欧やラテンアメリカでも折り紙は普及して素晴らしい作家たちも生まれています。また、最近ではアジアでも折り紙が広まり、特にベトナムは素晴らしい作家さんが素晴らしいです。インドも、少しずつですが普及しつつあります。ロシアも、全くないわけではありません。 こうして取り残されているのが、中東とアフリカです。イスラエルは教育に折り紙が取り入れられていることもあり、例外です。ただイランには愛好家がいます。イランはペルシャですからアラブではありません。となるとやはりアラブ圏とアフリカということになります。 折り紙というのは、誰かが教えたから広まるというものではありません。誰か本当に好きな人が国の中に生まれて、それから水平展開するという感じです。今後、アラブ圏やアフリカで折り紙がどう普及するかが、あの地域の将来発展するかの目安になると思います。 折り紙が何故バロメーターになるのかというと、私はこれが「離散的芸術」であるからと考えています。1枚の紙から無限の可能性が生まれる。しかもそこにあるのは山折り線と谷折り線の2つだけです。離散的というのは、紙を半分に折っても、二分割はされずに常に一枚の紙であるからです。この説明はまた別の時に詳しくしたほうがいいかもしれません。 私は知性というのは、チンパンジーレベルから比例して伸びるものだとは思っていません。人間となったことで劇的な変化を経て、人間は動物とは違う知性を手に入れました。記憶を操る知性です。 最近、科学番組を見ていると黒人の科学者が大分増えてきました。20年前はほぼ皆無だったと思います。アメリカの黒人の女優さんの言葉「機会さえ与えられれば黒人でも偉業がなせる」というのは正しいと思います。しかし、これはアフリカの地に済む黒人の間では多分考えられてもいないことでしょう。文化と歴史に培われた「国民性」がそれを阻んでいるのです。 このブログでも何度となく書きましたが、ブラジルのピダハン語は、人間がいかに言語によって条件付けられてしまうかを示す非常に興味深い例です。この本に出会ってなかったら、今の私の言語理論はなかったと思います。本を買わなくてもユーチューブ等で情報が得られますので、見てみてください。 欧米には白人至上主義に対する反省のようなものがあり、かなりの反動を含んでいます。「人類は平等」というのはあくまで理想論であり、私も現実を見つめるべきだと考えています。 (2015.11.17 21:36:20) |