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カテゴリ:個人の記憶、集団の記憶
時々自分でも思うが、私のとっているアプローチは「結論ありき」である。
例えば、「言語は平等でない」という結論を、このブログでは展開しているが、実はまだ、それに至る説明が十分にはできていない。実際、結論というよりインスピレーションであるのだが、とにかくこれを念頭に於いて、そこに辿りつく道を探しているのだと思う。 記憶というキーワードを見つけて、すべてをこれに絡めて説明しようとしているのだが、記憶言語学ではかなりの混乱が見られる。まず、記憶というのは、言語の分野ではまず個人に帰属するものであり、大きな意味では言語共同体に属する。しかし、これを記憶科学の枠で語ろうとすると矛盾が生まれる。記憶科学における記憶とは、一種の宇宙の摂理であって、特定の誰かに属するものではない。ところが言語の場合、記憶というのは常に個人や共同体に属するものであるのだ。 人類共通の記憶という表現もあるし、ユネスコの記憶遺産など胡散臭いものもあるが、まだまだコンセンサスを得ているものではない。特にユネスコの記憶遺産など、プロパガンダに悪用されている例が多々見られる。現在の世界では、人類共通の記憶などは存在しない。これが現実である。 それでも私が記憶に拘るのは、後、何世紀かかるか分からないが、宇宙の記憶と通じる記憶を、人類が手に入れる日が来るだろうと信じているからである。リトルバンで生まれた記憶が進化しているのは、これに達するためであり、我々が一人ひとり毎日何かをしているのは、最終的にそれにたどり着くための活動なのだ。 私が日本語と日本という国を特別視するのは、宇宙の記憶に達するのに一番近い民族ではないかと思うからである。これは、日本人が人種として元々優れているというのではない。日本人でも、育った環境でどうにでも変わる。しかし、日本人というアイデンティティーを持つ人たちの集団が、試行錯誤を繰り返しながら、ある1つの方向に進んでいるような気がするのだ。ある方向とは、人類共通の記憶、つまり宇宙の記憶である。 日本も単独でこの偉業を成し遂げることはできない。日本以外の言語民族と共に歩む道が必要である。支那や朝鮮のような反対勢力も日本を目覚めさせるためには必要なのかも知れないと思う。実際私がこれに目覚めたのはアングレーム国際漫画祭の慰安婦漫画展がきっかけである。これは作用反作用の感謝の法則にあてはまるが、日本を敵としか見ない支那人と朝鮮人が世界にはびこっているのは日本人にとって不幸だと思う。 日本は日本の記憶、支那は支那の記憶(プロパガンダ)、朝鮮は朝鮮の記憶(ファンタジー)を守ることにこれからも専念することになると思う。私は、日本の記憶が人類共通の記憶と一番近いと信じてこれからも論を展開していこうと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.11.28 08:01:03
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