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カテゴリ:新ソシュール記号学
ソシュールは「la linguistique générale(一般言語学)」を提唱した。
私が提唱するのは「la linguistique universelle(普遍言語学)」になるが、「言語の普遍的な特性」を列挙する学問ではなく、特定の知覚運動チャンネルに特化する事で、二つのタイプの言語が確立される過程を研究する学問である。 ここで一つ問題になるのは、特定の知覚運動チャンネルに特化するのは、一体何であるかであり、この「何か」の定義から私は出発する事になる。 私は、これを「記号」とするが、一般的に知られている「ソシュールの記号」の定義とは半分違っている。 何故「半分」なのかと言うのを説明したいと思う。 ソシュール自身が提唱した「言語には差異しか無い」という命題を、ソシュールの記号の二つの側面であるシニフィアンとシニフィエに、どのように適用するかによる。 ソシュールの場合、言語の意味に該当するシニフィエにだけ適用していたが、私は、言語の形に該当するシニフィアンにも適用する。 ソシュールは記号の半分の側面、私は両方の側面に適用する事によって生じる違いは非常に大きい。 先ず、記号の恣意性の定義が変わる。 ソシュールの記号の場合、言語の形と意味の結びつけには関係が無いという解釈になるが、私の再解釈する記号では、記号の恣意性の意味合いが変わってくる。 それは、記号のシニフィアンとシニフィエの両方に「言語には差異しか無い」という命題を適用する事で、記号の二つの側面が、其々の構成員の互いの差異によってのみ成立する価値体系という事になり、其々二つの価値体系の特定の座標/価値が一致する所に、特定の記号が成立するという事になる。 シニフィアンとシニフィエが其々独立した価値体系であれば、其々の価値体系の特定の座標/価値は互いに独立した関係にあり、互いの座標/価値が結びつく為の関係は恣意的であるという事が可能になる。 こう考えると、記号の恣意性という用語自体は成立するが、その解釈が全く変わってくるのである。 ただ、私はソシュールの恣意性という用語は長年に渡って曲解されてきたので、新しく「記号の離散性「を提案する。 これは、記号と言うのが、我々が生きていく上で蓄積される認知的な記憶が醸し出す混沌から、離散化という過程を経て、記号が誕生したことを受けて私が作った造語である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.02.17 07:12:45
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