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テーマ:タイガース党(8611)
カテゴリ:阪神2015
渡辺引退か。。。。
福間納の背番号12を引きついて、中継ぎ日本一になってくれると思ってたんだけど。。。 エスパー伊藤って言われたり、いろいろいじられるキャラだったけど 満塁の時以外は、頼りにしてたんだけど。。。 肩の故障から、復活できなくて、苦しんだのでしょうね。。。 夢と感動を、ありがとう! JFKの活躍は、渡辺がいなかったらありえなかった! お疲れ様でした!! 阪神・渡辺が引退会見「小さい体でよくできたと思います」 引退会見を行った阪神・渡辺=阪神球団事務所(撮影・中島信生) 阪神・渡辺亮投手(33)が1日、西宮市内で会見し、今季限りでの現役引退を表明した。 「2013年のキャンプで肩を痛めてから3年やらせてもらえましたけど、自分の思ったようなボールが投げられなくなったので。そろそろかなと思いました」 日本生命から2006年に大学・社会人ドラフト4巡目で入団した。2年目の07年に中継ぎで1軍に定着すると、12年までに50試合以上の登板を5度。通算362試合で15勝6敗、防御率2・64の好成績を残した。右肩の故障の影響で最近3年は出番が減り、今季は1試合の登板にとどまった。投手としては小柄な1メートル75の身体でプレー。「(1軍では)6年しかやっていないけど、防御率も2点台で終われましたし、小さい体でよくできたと思います」と、振り返った。 阪神渡辺が引退 2015年10月1日 救援投手として活躍した阪神の渡辺亮投手(33)が1日、兵庫県西宮市の球団事務所で記者会見し、今季限りでの引退を表明した。登板362試合が全て救援だった175センチの右腕は「やり切ったという気持ちが強い。この小さい体でよくできたと思う」と晴れ晴れとした表情で語った。 徳島・鳴門工高-同大-日本生命から2006年に大学生・社会人ドラフト4巡目で阪神入り。07年から6年連続で40試合以上に登板するなどしたが「13年のキャンプで肩をけがして、思ったような球が投げられなくなった。今年に入ってもあまり変わらなかったので、そろそろかなと感じていた」と引退を決断した。 渡辺の引退会見 自分の中でやりきった 2015年10月1日 拡大写真はこちら 球団関係者から贈られた花束を手に感慨深げな表情の阪神・渡辺亮=西宮市内(撮影・佐藤厚さばさばした表情で引退会見を行った阪神・渡辺亮=西宮市内(撮影・佐藤厚) 阪神・渡辺亮投手(33)が1日、西宮市内の球団事務所で、引退会見を行った。 今回の決断に至った経緯について、「13年のキャンプで肩をケガして、3年やらせていただいて自分の思ったようなボールを投げられなくなった」と明かした。 プロでの思い出にはプロ初勝利を挙げた。「久保田さんからボールをもらって、矢野さんから、頭をはたかれておめでとうと言ってもらった。バスに乗り込む前もブルペンで球児さんとジェフ(ウィリアムス)からおめでとうと言ってもらった。それが1番の思い出です」と懐かしそうに振り返った。「自分の中ではやりきった気持ちです。(心残りは)まったくないです」ときっぱりと言った。 渡辺は05年度の大学生・社会人ドラフト4巡目で入団。07年から6年連続で45試合以上に登板するなど、貴重な中継ぎとしてチームを支えた。 通算362試合登板し15勝6敗、防御率2・64。今季の1軍登板は1試合だった。07年、10年にはCSに出場した。 プロ入り後 プロ1年目の2006年は結果を残せず、同年の秋季キャンプから2007年の春季キャンプにかけてナックルボールの習得を目指した。この挑戦は話題になり、ナックルボールについて英語と日本語で解説した差出人不明のエアメールが届くこともあった[2]。しかし、実戦で使えるレベルのナックルボールを習得するには至らなかった。 2007年4月22日に初の一軍昇格を果たし、同日の対読売ジャイアンツ戦で初登板。シーズン当初は敗戦処理での登板が多かったが、安定した投球を続け、同じリリーフ右腕の橋本健太郎が腰を痛めて離脱した後は先発投手とJFKを繋ぐ場面での起用も増えた。8月3日の対広島東洋カープ戦で1点ビハインドの7回裏に登板、1イニングを無失点に抑えると8回表に味方が逆転し、プロ初勝利を挙げた。同年オフに結婚。 2008年、広島からFAで入団した新井貴浩に背番号「25」を譲り「12」に変更。キャンプからオープン戦にかけては不振のため二軍落ちを経験したものの、開幕一軍入りを勝ち取った。開幕直後にジェフ・ウィリアムスが故障離脱したため、代わって久保田智之と共にセットアッパーを務めた。また、久保田が不調時にもセットアッパーを務め、その際には渡辺 (Watanabe)・ウィリアムス (Williams)・藤川 (Fujikawa) のリレーから3人の頭文字を取って「WWF」とも称された。 2009年も中継ぎ陣の一角として活躍を見せたが、やや不調気味で後半戦は二軍落ちも味わった。2010年は不調の中継ぎ陣の中では比較的安定した活躍を見せた。2011年も勝利の方程式として期待された久保田と新加入の小林宏之が不調であったために、藤川に繋ぐセットアッパーの一人として活躍した。2012年は50試合に登板したが、他の中継ぎ投手陣が好調だった影響で前年と比べ接戦の場面での登板が減ったため、勝敗共になしでシーズンを終えた。 2013年は、春季キャンプ中に右肩の違和感を訴え、開幕を二軍で迎えた。しかし、同年に先発からクローザーに転向した久保康友の救援失敗が相次いだため、5月29日に久保と入れ替わる格好で同年初の出場選手登録。例年と同じく中継ぎ投手陣の一角を担っていたが、7月25日の対東京ヤクルトスワローズ戦にて1回1/3を3失点と打ち込まれ、翌26日に登録を抹消された。9月13日に再び登録されたが、3日後の16日に登録抹消され、そのままシーズン終了。2014年はさらに登板数を減らし、一軍定着以来最少の14試合だった。 プレースタイル 投手としては小柄ながら、平均球速141 km/h、最速151 km/hのストレートやスライダー、チェンジアップなどのキレで勝負する本格派右腕。プロ入り後の登板は全て中継ぎ登板である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 1, 2015 06:42:59 PM
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