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水曜集会批判に主催者側が反論「92歳なので記憶を歪曲」
まあ、それは正しいですかね~?? いろんな証言の変化や矛盾がありまくりですからね~ 韓国国内でも、年齢あってないよね。。。若すぎるって言われてるから。。。 でも、食い物にしてるってもは正しいですよね。 結局、コロナや、与党圧勝で、自分たちに金が入ってこないってことでの仲間割れですよね。。。 いくらでも、すきにやってください。。。 『証言』の変遷 李の証言については「国民服を来た日本人の男から、ワンピースと革靴をもらってうれしくてついて行った」と話していた内容が「日本の軍服を着た男らが家にやってきて、男から何かとがったものを背中に突きつけられ船に乗せられて行った」と“軍による強制連行”を主張する内容に変更していることから信憑性がないと産経新聞により指摘されている[41]。 1993年当時のイ・ヨンスの証言 1993.7「写真記録 やぶられた沈黙」1993.10「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」より抜粋 「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達(キムプンスン)のお母さんが「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。 それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。~(中略)~行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。~(中略)~それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。」 『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(韓国挺身隊問題対策協議会 明石書店 1993)での本人の証言をもとに列記する。 1944年秋(満16歳)貧乏な様子におばさんから働けと勧められ、「軍服みたいな服を着た男」(国民服に戦闘帽の男の日本人)に服と靴で釣られて働けるものとついて行った。大連から船に乗った。 1945年(17歳)新暦の正月、爆撃下の船上で強 姦される。台湾の新竹に到着したが股に腫れ物ができて血がべったりついていて歩けない。嫌だと言うと慰安所の経営者に電話線のコード巻き付けられ拷問された。トシコという名で主に特攻隊の相手をした、その際に性 病を移された。 1945年8月(17歳)朝鮮人の人が終戦だと教えてくれた、経営者はもう逃げていなかった。埠頭にある収容所に行った。麦が青い芽を出す頃(11月頃)家に帰った。 2002年6月26日の「しんぶん赤旗」[42]では「14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられた」「拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた」と証言している。 2004年12月4日に開催された『12・4全国同開催「消せない記憶」』では「1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。移動中の船の中で、日本の兵隊たちに繰り返し強 姦される。台湾では、日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。「慰安所」では1日に何人もの兵士の相手をさせられ、抵抗すると電線のようなもので電流を流されたり、丸太で叩かれたりの暴行を受けた」と紹介されている[43]。 2006年10月13日、『上田知事の「従軍慰安婦」否定発言を問う県民連絡会』の集会後の記者会見では、「15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間も慰安婦をさせられた」と述べた[44]。 2007年2月23日、日朝協会主催の「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」で「15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた」と証言している[45]。 2007年3月1日、上田清司埼玉県知事と面談後の記者会見では「16歳のとき、台湾で特高隊員に口を塞がれて連れて行かれた」と述べている[46]。 2007年4月27日の「asahi.com」の記事[47]では「私は15歳の時に拉致された。まわりの女性は誰も売春婦のようにはお金をもらっていなかった」と証言している。 2007年4月28日にハーバード大学で行った講演では「16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」[48]と証言している。 2007年6月14日に開催された『旧日本軍の性暴力被害者に謝罪と賠償を求める国会前スタンディング』で「15歳の時、両親のもとから連れ去られ、台湾の特攻隊の慰安所に送られた」「台湾の慰安所で、私は殴られたり、蹴られたりしました。『言うことを聞いたら、お父さんお母さんにまた会わせてやる』と言われ、されるがままになりました。ひどいことをされ、腹膜炎になりました。」と証言した[49]。 2007年に放送された韓国ESBテレビ「時代の肖像」で「1944年10月、夕方に家の外に出てからわけも分からないまま台湾にある日本軍慰安所までつれて行かれた」「台湾につれて行かれる船に日本海軍300人と朝鮮娘5人が乗っており、船の上でもう純潔を失って悽惨に身を踏み躙られた。」「強要に負けて‘一日に少なくとも20人、多くは70人の日本軍’に性暴行にあって‘生理中にも日本軍を受けると’したし、要求を拒否でもすれば‘刀でぐいぐい裂く’残忍な暴力と殺しまであわなければならなかった被害者たちに自分の考えで身を売ったという意味を持つ‘慰安婦’という呼称は当然しない」と証言している[50]。 2011年12月13日のニューヨークの韓人有権者センターとクィーンズボローコミュニティカレッジのホロコーストセンター(ナチスのユダヤ人虐殺記念館)が設けた記念講演で「15歳の時に台湾の神風部隊に連れて行かれあらゆる拷問に遭いほとんど死ぬところだった。一緒に連れて行かれた他の女性2人は死んだ。」と証言した[51]。 2012年9月12日、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会が主催した講演会で「15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行されました。帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けました。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないかと思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった」と証言した[52]。 2012年9月に慰安婦関連のイベントで招聘されたときに「1944年、16歳の時に台湾の新竹にある慰安所へ。生理の時も強 姦された」とプロフィールが更新された[53]。 証言の矛盾 年齢の不一致 1928年12月13日生まれ、韓国の場合数えで年を表す。 ◽1944年の夏・証言年齢16歳『やぶられた沈黙』 満15歳=数え17歳 ◽1943年10月・証言年齢14歳『証言 強制連行された軍慰安婦』 満14歳=数え16歳 ◽1944年・証言年齢数え年16歳『英文 中国日報』 満15歳=数え17歳 ◽1944年秋・証言年齢14歳『仏ルモンド紙』 満15歳=数え17歳 連行された状況の変化 ◽1993年7月 『写真記録 やぶられた沈黙』 1944年の夏、軍服みたいな服を着た日本人にワンピースと靴を貰いついて行く。 ◽1993年10月『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』 1944年の秋、国民服を着た日本人にワンピースと靴を貰いついて行く。 夏⇒秋 軍服みたい⇒国民服 ◽1996年8月『私たちと戦争責任』 1943年10月、女性が家に入って来て堤防まで連れて行かれ、軍服を着た男がおり先に来ていた親友に赤い風呂敷を渡され、中に靴が入っていた。 1944年⇒1943年 国民服の日本人⇒軍服の男 女性が登場 ◽2005年4月『証言集会(同志社大学開催)』 1944年、軍人と首に何か突きつけられた女性が家に来る、自分も口を塞がれ背に何かを突き付けられ連れ去られる。 1943年⇒1944年 屋外⇒直接家屋内へ 協力した女性⇒女性も被害者 靴を貰いついて行く⇒連れ去られる ◽2007年3月25日 『仏ルモンド紙』 1944年秋、当時14歳家で寝ている時女が呼んでいる声がして出ていくと、一人の日本兵が自分を捕らえ連行された。 脅されていた女性⇒誘い出した女性 何かを突きつけられる⇒捕まり強引に連れて行かれる 慰安婦被害者の李容洙さん「水曜集会、参加しない」 「学生たちは水曜集会に大切なお金と時間を使っているが 集会は憎しみと傷ばかり教える 両国の学生たちが話し合ってこそ問題が解決 日本の謝罪と賠償は1000年たっても受けるべき」 慰安婦被害者の李容洙さん「水曜集会、参加しない」 旧日本軍の慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さん(92)は7日「28年間にわたり続けてきた水曜集会(旧日本軍慰安婦問題の解決を求めて毎週水曜に開かれる定期デモ)に、これ以上参加しない」と明らかにした。 李さんは「学生たちが(水曜集会に参加するために)尊いお金と時間を使っているのに、集会は憎しみと傷ばかり教える」として「これからは、正しい歴史教育を受けた韓国と日本の若者たちが仲良くしながら話し合ってこそ問題が解決される」と述べた。 李さんはこの日、大邱市南区の喫茶店で記者会見を開き「集会が学生たちに良い影響を与えていない」として参加を中止する意思を明らかにした。 李さんは「参加した学生たちが時間を割いて来ているのに、団体(日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯)側では学生たちに昼食すら一度も出したことがない」として「このデモを終わらせて、日本と韓国の間を若い人たちが行き来しながら仲良くすべき」と語った。 さらに「水曜集会をなくしたとしても(日本から受けるべき)謝罪と賠償は100年たっても1000年たっても受けなければならない」と述べた。 韓国人慰安婦被害者の水曜集会批判に主催者側が反論「92歳なので記憶を歪曲」 韓国人慰安婦被害者の水曜集会批判に主催者側が反論「92歳なので記憶を歪曲」 旧日本軍の韓国人慰安婦被害者、李容洙(イ・ヨンス)さん(92)が7日、「(ソウルの日本大使館前で慰安婦問題の解決を求め定例で行われる)水曜集会は(学生たちに)憎悪と傷ばかり教えている」と批判すると、集会を主催する市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(旧:韓国挺身隊問題対策協議会、以下「正義記憶連帯」)側は李さんの年齢に言及し反発した。 李さんの発言を聞いた正義記憶連帯のハン・ギョンヒ事務総長は「李さんは92歳で、心身がひどく弱っている状態だ。李さんの記憶には歪曲(わいきょく)された部分がある。また、寂しいという感情が論理を覆う部分があるので、考慮して見なければならない」と語った。 その上で、「李さんに寄付金や生活用品を支給してきたし、李さんの(慰安婦被害を伝えるための)国際活動費もすべて私達が出してきた。毎回ホームページで財務諸表を公開し、寄付金がどのように使われたのかを伝え、何度も監査を受けている」と説明した。 李さんが同日、「(正義記憶連帯に)30年間だまされるだけだまされ、利用されるだけ利用されてきた。集会の時、お金のない学生たちが十匙一飯(少しずつ出し合って)寄付するが、寄付金は慰安婦被害者のために使われていない」と語ったことに対して反論したものだ。 事務総長は同日、「李さんの記者会見を主導した側は、正義記憶連帯側に悪い感情を持って李さんをあおった」と強調した。そして、「今回の記者会見を主導した側は補償を先立たせる考えなので、被害者の人権保障を最優先にする我々と対立していた」と話した。 韓国団体 慰安婦被害者の主張に反論=「会計監査・後援金透明に管理」 【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦問題の解決と被害者の支援活動に取り組む韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(旧「韓国挺身隊問題対策協議会」)は8日、韓国人慰安婦被害者の李容洙(イ・ヨンス)さんが同団体の会計について問題提起したことに対し「募金の使用内訳は定期的な会計監査を通じて検証を受け、公示手続きを踏んで公開している」との立場を表明した。 正義記憶連帯は「30年間変わらぬ気持ちで日本軍慰安婦被害者の人権と名誉回復を願い、運動を支持し、連帯してきた方々の心に予期せぬ驚きと意図せず傷を与えたことを謝罪する」と述べた。 これに先立ち、李さんは7日に南東部の大邱市内で開いた記者会見で「募金・基金などが集まれば(慰安婦被害者の)おばあさんたちのために使うべきだが、おばあさんたちに使ったことがない」とし、「(ソウルの日本大使館前で慰安婦問題の解決を求める定例の水曜集会に)参加した学生が出した募金はどこに使われるか分からない」と主張した。 これに対し、正義記憶連帯は2017年下半期に募金を行って造成された基金から、李さんを含む8人の慰安婦被害者に1人当たり1億ウォン(約870万円)を「女性人権賞」の賞金として伝達したと指摘。被害者に後援金を支給するほか、慰安婦問題の国際社会での認識向上のための活動、水曜集会の開催、被害者の訴訟支援、関連コンテンツの制作事業などに使用しているとも釈明した。 正義記憶連帯は李さんが「慰安婦問題は(正義記憶連帯前代表の)尹美香(ユン・ミヒャン)氏が解決しなければならない」として、先月の総選挙で与党「共に民主党」の比例政党「共に市民党」の比例代表で当選した尹氏が国会議員になってはならないと述べたことについては、「尹前代表が3月20日に代表を辞任して国会議員比例代表として出馬した時、李さんは祝意とともに家族を送り出す名残惜しさと寂しさを感じただろう」と説明した。 その上で「正義記憶連帯の活動家らは常におばあさんたちに対する尊敬と感謝の心を一瞬も忘れたことがない」と強調した。 また「今回のことを、30年間の闘いの中で努力してきた正義記憶連帯の活動に不足がなかったか振り返る契機にする」との考えを示した。 李さんの会見後、正義記憶連帯のホームページはアクセスが殺到してつながりにくい状態が続いている。 日本拠出金への慰安婦被害者批判は「思い違い」 韓国支援団体前理事長 【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦問題の解決と被害者の支援活動に取り組む韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(旧「韓国挺身隊問題対策協議会」)の前理事長、尹美香(ユン・ミヒャン)氏は8日、2015年末の韓日合意に基づき日本政府が拠出した10億円に関する韓国人被害者の李容洙(イ・ヨンス)さんの発言に対し、「ハルモニ(おばあさん、李さんのこと)の記憶が変わってしまっていることを知った」と語った。李さんは前日に記者会見を開き、正義記憶連帯の活動をはじめ、先月の総選挙で与党系の比例政党から出馬して比例代表で当選した尹氏を批判し、10億円について「尹さんだけが知っていた」と主張した。 尹氏はこの日、自身のフェイスブックで、「(李さんの発言に対し)消極的な書き込みで対応に代えるしかできない。相手が被害者だからだ」とつづった。 同氏が李さんに電話したところ、朴槿恵(パク・クネ)前政権が日本から10億円を受け取ることを尹氏とほかの被害者たちは事前に知っていたが李さんだけは知らず、後日、当時の尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官の手紙で初めて知ったと、李さんは話したという。これに対し尹氏は「韓日合意発表の当日、ハルモニ(李さん)がすぐに事務所にやってきて、自分や弁護士たちと一緒にテレビで尹長官の発表を見た。発表が終わるなりハルモニと一緒に記者会見を開き、ハルモニの発言はその晩のニュースに流れた」と李さんに説明した。だが、李さんはそうではないと言い、これまでの経験上、尹氏もそれ以上対話を続けることができなかったという。 「尹氏が国会議員になってはならない」という李さんの発言については、受け入れることができないとした。比例代表の立候補の届け出後に李さんに慎重に切り出した際は、「よくやった」と言ってもらえたという。 同氏は「多くのハルモニの気の毒な時間、その歳月の分まで私の人生とし、国会で『亡くなった方たちの分まで共にやり遂げる』取り組みをしていきたい。それしか私が進む道はないと思う」と書き込んだ。 また、正義記憶連帯の活動や会計は徹底的に管理し、監査や報告も経ていると強調した。 「日本大使館前の集会は憎悪煽る」韓国元慰安婦が慰安婦支援団体などを強く批判 2020.5.8 15:57国際朝鮮半島 2019年8月、ソウル市内で行われた新たな慰安婦像の除幕式であいさつする李容洙さん(名村隆寛撮影) 【ソウル=名村隆寛】韓国の元慰安婦の女性が、ソウルの日本大使館前で毎週開かれている日本政府への抗議集会と、集会を主催する慰安婦支援団体、「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)を強く批判し、波紋を広げている。 正義連を批判したのは李容洙(イ・ヨンス)さん(91)。韓国メディアによると、李さんは7日、南東部の大邱(テグ)で記者会見し、日本大使館前での集会について「学生たちが尊いお金と時間を使っているのに、集会は憎悪を教えている」「学生たちに良い影響を与えず、集会はなくすべきだ」と語った。さらに、「集会への参加学生からの募金はどこに使われるか分からない」と批判し、今後、集会に参加しない意思も示した。 また、李さんは、正義連の前理事長で4月の総選挙で初当選した尹美香(ユン・ミヒャン)氏(55)が「李さんから支持されている」と韓国メディアに語ったことを「全部でたらめだ」と否定。「尹氏が国会議員になってはならない」「募金・基金は慰安婦被害者のために使うべきだが、そのように使ったことがない」などと非難した。 李さんは米国でも慰安婦問題をめぐり日本批判を繰り返したことや、2017年11月にトランプ米大統領が訪韓した際に、韓国大統領府での晩餐(ばんさん)会でトランプ氏に抱きついたことなどで知られる。 李さんは15年にも韓国誌とのインタビューで、正義連の前身である挺対協について「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」「抗議を毎週やれば性格も態度も悪くなる。挺対協の人たちは闘争家の側にいるようだ」と批判したことがある。また、当時語った「挺対協は本人に確認もせず、事実と異なる証言集を出した」との批判を今回も繰り返し強調した。 李さんから批判された尹氏はネットで「李さんの記憶が(以前とは)変わった」などと主張している。慰安婦問題で反日活動を続けてきた尹氏に対し、保守派を中心に「元慰安婦を利用してきた」との批判は根強い。元慰安婦からの直々の批判により、尹氏の疑惑はくすぶり続けそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 8, 2020 10:05:30 PM
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