なかにし礼さんまで。。。
本当に残念。。。
御冥福を、お祈りいたします。
なかにし礼さん死去、中村泰士さん訃報に続き…昭和の偉人また一人 長男「最後まで格好良く色気があっていい男」
作詞に小説、エッセーと、なかにしさんは晩年まで精力的に執筆を続け、社会を見る観察眼も鋭かった
「北酒場」「石狩挽歌」「まつり」など数々のヒット曲を生んだ作詞家で直木賞作家、なかにし礼(本名・中西禮三=なかにし・れいぞう)さんが23日午前4時24分、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去したことが25日、分かった。82歳だった。晩年も執筆意欲は旺盛だったという。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻で元歌手、石田ゆりの中西由利子(なかにし・ゆりこ)さん(69)が務める。
「北酒場」を作曲した中村泰士さん(享年81)が20日に死去した3日後、同曲を作詞したなかにしさんも天に召された。
25日に長男の会社員、中西康夫さんが文書で父の死を報告。「やりたい事がまだまだあったと思うので残念でなりません。父の作品にはいつも父の伝えたい事が深く書かれていました。最後まで格好良く色気があっていい男でした」としのんだ。
なかにしさんは2012年に食道がんを発症。陽子線療法で一時回復したが、15年に食道につながるリンパ節にがんが再発し手術を受けた。また、若い頃から心臓にも持病があり、16年にペースメーカーを埋め込む手術を受け、執筆・創作活動を続けてきた。
当初は今月22日に発売された週刊誌「サンデー毎日」でエッセーを始める予定だったが、今月上旬に心臓病が悪化して入院。執筆を断念し、集中治療室で何度も危機的な容体になり、最期は妻の由利子さんや康夫さん、長女らに見守られ、息を引き取った。
戦前に旧満州(現中国東北部)で生まれ、波乱万丈の人生だった。終戦後に引き揚げるときは何度も命の危機に陥り、その強烈な体験は小説「赤い月」に活写した。執筆活動の原点は祖国に捨てられたという思いと帰国後の赤貧体験だった。
立教大生時代からシャンソンの訳詞に取り組んだが、学生結婚した最初の妻と新婚旅行中の1963年、静岡・下田市のホテルのバーで当時の大スター、石原裕次郎さんと遭遇。「作詞家になれ」と激励されて一念発起、作曲もした「涙と雨にぬれて」で第一歩を踏み出した。
作詞は「のたうち回って作るのが好き」とプロの覚悟を語っていたなかにしさん。代表曲「時には娼婦のように」で歌詞に娼婦という言葉を使った理由について「エロスなど、何もかもが許される社会ではないと、平和とは言えないから」と熱っぽく語っていた。
2000年には小説「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞。テレビの情報番組の辛口コメンテーターとしても親しまれ、自由と平和を愛する気骨ある文化人だった。
なかにし 礼(なかにし・れい)
本名・中西禮三(なかにし・れいぞう)1938(昭和13)年9月2日生まれ。都立九段高校から立教大文学部仏文科を卒業し、後年に都知事となる放送作家、青島幸男さんの門下生となった。生涯、手掛けた歌詞は約4000曲。♪悪い時は どうぞぶってね…と歌うヒット曲「恋の奴隷」のように、扇情的な歌詞で聴き手の心を揺さぶった。兄の借金を背負うなどして一時、3億円以上の借金をしたが完済。私生活では最初の妻と68年に離婚。71年に歌手、いしだあゆみ(72)の妹で元歌手、石田ゆりの由利子さんと再婚した。