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緒方貞子氏は、初の女性、初の日本人、初の学者出身の難民高等弁務官だった。 「身長5フィートの巨人」、 2019年10月29日 BBC NEWS 女性初の国連難民高等弁務官(UNHCR)となり、人道支援に尽力した緒方貞子さんが亡くなったことが、29日に明らかになった。 92歳だった。 日本メディアによると、葬儀は29日、東京都内の教会で営まれた。 親交のあった上皇后さまも弔問に訪れた。 緒方さんが2003年から9年近く理事長を務めた国際協力機構(JICA)によると、緒方さんは今月22日に亡くなった。 緒方さんは、深刻な難民危機が相次いだ1991~2000年に難民高等弁務官を務めた。 1991年の湾岸戦争後にイラクから逃げるクルド人難民、バルカン紛争の戦争被災者など、「何も持たず、身を守る手立てもない」人々を守るために情熱を捧げた。 緒方さんの並外れた交渉力や、紛争の敵対勢力と向き合う能力は、国連職員や各国首脳から尊敬され、「身長5フィート(約150センチ)の巨人」と称賛された。 1991年にUNHCRに就任。 初の女性で初の日本人、さらに初の学者出身の難民高等弁務官だった。 就任から間もなく、イラクを逃れる数百万人ものクルド人という深刻な難民危機に直面した。 「自分がどういうことになるのか、よく理解していなかった。というのも、自分が就任した後に起きたことは、それ以前に誰もが思っていた世界情勢とかなり違ったので」と、緒方さんは2005年に「ジャパン・タイムズ」に話している。 緒方さんはイラク北部やボスニア・ヘルツェゴビナ、コソヴォ、アフリカ大湖沼地域などでの大規模な救援作戦を指揮することになる。 2006年出版の自伝「紛争と難民――緒方貞子の回想」で緒方さんは、難民高等弁務官の仕事は世界中をめぐる「消防隊」のようなものだと説明している。 UNHCR職員のヨハン・セルスさんはジャパン・タイムズに対して、緒方さんは「思いやりの深い」人で、紛争地では「まずは難民の声を聞いてから、地域の政治指導者たちと交渉していた」と話した。 ― 引用終り ― 緒方貞子氏 1927年(昭和2年)9月16、日東京府東京市麻布区(現東京都港区)に生まれ。 外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻の長女。 命名は曾祖父の犬養毅。 父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ、中国・広東省、香港などで過ごす。 小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入。 聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)卒業。 父の勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学ぶ。 学位は、政治学博士(カリフォルニア大学バークレー校)。 国際政治学者。 国際基督教大学准教授、上智大学教授を歴任。 在籍中は上智大学国際関係研究所長や外国語学部長などを務める。 模擬国連団体として初めて組織化された「模擬国連実行委員会」の顧問として発足に携わった。 2019年10月22日、満92歳で死去。 【国連関係活動】 1968年、国際基督教大学 (ICU) 講師を務めていた時に、市川房枝参議院議員から「今年の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請された。 これが契機となり国際連合の仕事に関わるようになった。 1975年、国連がを国際婦人年とすることを宣言。 日本社会党の田中寿美子が参議院の外務委員会で「国際婦人年にちなみ、女性民間人を大使、公使に起用しては」田中寿美子参議院議員(日本社会党)が提言し、宮澤喜一外務大臣は「ぜひ実現したい」と返答。 これにより緒方は女性国連公使第1号となった。 国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表。 1990年~2000年、第8代国連難民高等弁務官。 2001年からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年から2013年 までJICA(国際協力機構)理事長。 日本人初の国連難民高等弁務官 緒方貞子さん UNHCR 日本
緒方さんの夫は「四十郎」氏で、元日銀の理事。 四十郎氏の父親は、「朝日新聞」の副社長や自民党総裁を務めた政治家の緒方竹虎氏。 四十郎氏は2014年に死去した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年10月30日 22時17分44秒
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