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カテゴリ:アイデンティティー
言語学者たちが長年行っている言語の起源論争で一つ決定的に欠如しているものがある。
それは、言語が成立する前に、先ず人類という種の個体が、自らのアイデンティティー(自己同一性)を確立する必要があるという前提である。そして、このアイデンティティーの確立というのは、他の生命体の種では見られない現象ということである。 更にに重要なことは、人間だけが確立可能なアイデンティティーを論じる前に、それ以外の動物が何をしているかを理解する必要がある。動物の状態に、何らかのプラスアルファがあって人間へと進化したと考える方が、自然な論理であると考えているからである。 (続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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佐藤さん
「人類という種の個体」とは、分かりやすく言えば、 我々個人個人の事ですね。 つまり人間一人一人と言いますか、もっと具体的に言えば、 「ともちゃん」と言う、個人名で呼ばれている、私の事ですね。 私は、自らのアイデンティティー(自己同一性)を 確立しているから言葉を話す事が出来る。 しかし、アイデンティティーの確立は、他の生命体では 見られないと言う事なのでしょうね。 「ともちゃん」は、アイデンティティーを確立している。 しかし、私の猫はしていない。 こう言う事なのだと思います。 佐藤さんは私が、どのようなアイデンティティーを確立していると、 お考えなのでしょうか? アイデンティティーを確立出来ない、 私の猫の精神状態は、どのようなモノなのでしょうか? この場合の「何らかのプラスアルファ」とは、 アイデンティティーの事であると考えればよろしいのでしょうか? (2019.10.08 00:21:57)
ともちゃんさんへ
この投稿が(続く)で終わったのは、自分の考えているアイデンティティーと一般の人たちのアイデンティティーの定義が微妙に違うと気づいてしまったからです。 本当は、勢いで最後まで書けると思ったのですが、途中で挫折してしまいました。 動物にも、人間のアイデンティティーと似たものはあります。物理的には、肉体の構成元素の入れ変わりが起きていますが、生物的なアイデンティティーによって生まれたときからずっと自らの生命体としての同一性を維持しています。(変態する昆虫などはわかりません。)そして、高等生物になると、自分の経験の記憶によって、個体の個性が育まれます。ともちゃんさんの猫にも、他の猫に無い個性があるはずですが、猫という種によって定義される性質もあります。ただ、犬に育てられた猫が犬のようにふるまうことがあるように、これも結構個体差があるようです。 さて、人間のアイデンティティーとの違いですが、先ず動物は自分に名前があるという発想がありません。借りに、ともちゃんさんの猫の名前がタマで、「タマ!」と呼ぶと振り返るとしても、それは自分に関係した音であると認識しているだけで、それが自分の「名前」であるとは知りません。 もう一つは、言語の核となる「記号」の欠如です。というか、人間のアイデンティティーが「記号」という、自分の分身になり、それを聴覚や視覚とそれぞれに対応する運動(発声とジェスチャー)に特化して、聴覚音声言語と視覚ジェスチャー言語が生まれます。 今、動物に認知活動が、どのようにして人間のアイデンティティーを生むのか、今一度整理しようと思っています。今まで、これについてはブログでもかなり書いてきましたが、その集大成ができたらと思います。 人間は、記号によって生まれる特定の言語を通して、アイデンティティーのコピーを行うことができます。分子や生命も同様にコピーされて拡大生産されるのと同じです。これに対して、動物に個体ごともアイデンティティーは、一緒に過ごしている他の個体に影響を及ぼすことはあっても、言語という媒体を通してコピーされることはありません。 ここで言うプラスアルファは、アイデンティティーを生み出すための「離散分裂(再)融合更新循環」のことになります。 (2019.10.08 01:58:22)
佐藤さん
そもそも、アイデンティティーと言う単語そのものが、 日本人に取っては、難しい言葉だと思います。 精神分析学者のE・H・エリクソンが、1950年代にこの言葉を使い始めました。ある意味で、この言葉は非常に便利な言葉です。 だから、その後、この言葉は、人間科学のキーワードとして定着しました。 その結果、意味内容が使う人それぞれによって、 独自の使い方がされてしまいました。 つまり、意味が広がり過ぎたのです。 日本語では「自己同一性」あるいは「帰属意識」と翻訳されています。 私は、この言葉を「帰属意識」と言う意味で使っています。 なぜなら「帰属意識」が、一般の人に一番理解しやすいからです。 私は自分の家族に対し「帰属意識」を、持っています。 自分の家族と他人の家族とでは、人間の質が全く違います。 日々、小さな子供が殺されたりイジメで自殺したり、 残酷な事件が起こっています。 ワイドショーで、そんなニュースが流れても、 次のコーナーのタレントさんの言葉に、私は笑っています。 私は、被害者の家族にではありません。 だから、帰属意識を持っていません。だから、次の瞬間に笑えるのです。 私の女房は愛媛の人間です。 愛媛の高校が甲子園に出たときは、夢中で甲子園を見ています。 野球など興味のない女房です。自分の母校でも何でもありません。 とにかく愛媛が出ると応援します。これもまた、故郷への「帰属意識」です。 オリンピックは平和の祭典ではありません。 これは国家に対する「帰属意識」の祭典です。 ヒトラーはベルリンオリンピックで、 国民の国家に対するアイデンティティーを高めて行きました。 オリンピックは、ある種の「疑似戦争」です。 民族は、オリンピックを通して「疑似戦争」をしているのです。 旨く行けば、それが民族の憎しみの「ガス抜き」になります。 敵を倒したいと言う強烈なガスが、オリンピックによって解消されるのです。 そう言う意味では、オリンピックは、まさに平和の祭典だと思います。 私は、プロ野球の例をよく出します。 仲間よりも出世をした人間は、 会社に対するアイデンティティーを持っています。 しかし私のような、そうでない人々は、 会社よりも贔屓(ひいき)のプロ野球チームの勝敗の方がズッと大切です。 人間の意識の中には、自分に近いモノから順に、 アイデンティティーの輪が広がっています。 自分・家族・地域・国家、あるいは贔屓の野球チーム。 アイデンティティーとは、自己の外に自己を投影する事です。 その「投影された自己」が、勝利する事を喜ぶのです。 たとえば自分の子供の出世、あるいは贔屓チームの勝利がそれに当たります。 私は、この様な例で、アイデンティティーを語って来ました。 アイデンティティーは、この様な説明が一番分かりやすいと思います。 そして一般的に使われる「アイデンティティー」も、 おおよそこの様な意味で使われています。 しかしE・H・エリクソンが、初めにこの言葉を使ったときは、 もっと別の意味があったと思います。 それは「帰属意識」と言うよりも 「自己同一性」と言う意味の方が強かったと思います。 青年時代には、「自分が自分である」と言う感覚が、 崩壊すると言うケースが非常におおいのです。 この感覚は説明が非常に難しく、体験した人間にしか理解出来ません。 おそらく佐藤さんは、「自己同一性」と言う意味で、 アイデンティティーと言う単語を使っておられるのだと思います。 佐藤さんは以下の様に書いておられます。 『自分の考えているアイデンティティーと 一般の人たちのアイデンティティーの定義が、 微妙に違うと気づいてしまったからです』 おそらく佐藤さんは、「一般の人達のアイデンティティーの定義」を、 私が、使っている「アイデンティティーの定義」のように 解釈されているのではないかと思います。 アイデンティティーは、非常に意味の広い単語です。 エリクソンが使用した、本来の意味で使って見られていかがでしょうか? 佐藤さんが意図されて内容に、だいぶ近づくような気がします。 (2019.10.09 07:54:42)
ともちゃんさんへ
>>>アイデンティティーは、非常に意味の広い単語です。 エリクソンが使用した、本来の意味で使って見られていかがでしょうか? 佐藤さんが意図されて内容に、だいぶ近づくような気がします。 アドバイスはありがたいのですが、心理学のアイデンティティーと私の考えるアイデンティティーに乖離がありますので、エリクソンに戻ることはできません。 私なりの自己同一性を定義するしか道はないようです。 (2019.10.09 21:17:10)
ともちゃんさんへ
補足すると、何かへの帰属意識、自分が何者であるかどうかは、個人が社会の中で直面するアイデンティティーの問題ですが、私の考える自己同一性は、記憶の離散分裂によって生じる現象です。 この部分をこれから再度整理する必要があります。 (2019.10.10 01:01:22)
ともちゃんさんへ
今、気づいたのですが、私は最初に記号の分析をして、人間のアイデンティティーへと対象が変わりました。 この道筋をしっかりと説明しないといけないと思います。 (2019.10.10 07:07:15) |