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カテゴリ:新ソシュール記号学
前回は、以下の一文で締めくくった。
「ところが、ここで大きな問題が生じる。何故、音声の聴覚的認識において前後への二極化が起きるかという問いが新たに生まれたのだ。」 ここで、一つ大きな問題が生じる。 私は、日本語やフランス語などの音声を媒体としている言語に関して、あくまで聴覚的な認識ということに拘るのであるが、今の言語学では、この点が全く問題になっていないという現実がある。これを端的に語るのが、音素の国際音声記号による視覚的、且つ平面上への物理的なな記述である。 何故、視覚的な文字による記述に問題があるかというと、聴覚で聞き取る音声は発した後、即座に消えてしまうのに対して、文字による記述は、目を逸らさない限り、見ている人の視界から消えることが無いからである。 これは、聴覚で認識しているはずの音素が、音素記号を使って視覚的に表現され記録されることにより、あたかも視覚で認識しているような錯覚に陥っているのである。私が考える「言語学の嘘」の一つである。 この「前後への二極化」というのは、一般的に言われている言語の「直線性(linearity)」と相反する概念である。 言語の直線性をイメージしようとして見ると、ウナギの寝床のような長いアパートを訪問するようなるかもすれない。玄関のドアに最初の音素が記してあり、そこを開けると隣の部屋のドアに次の音素が記してある。そして、ベランダに出るまで、これが果てしなく続く感じである。 同じアパートを訪問するにしても、音声の聴覚認識に ドアを開けることなく、順番に部屋にテレポートしていく感覚である。 「直線性」という場会、一列に並んだ音素が順番に聴覚上に展開することになるが、実施の所、我々は、文の初めに来る音素を一番最初に特定した後、連続する音素を順番に特定しながら発話全体を認識しているのではない。 「後追い入れ子構造」を作るためには、前後への二極化だけでは不十分であり、アクセントや声調、イントネーションによる上下の二極化が必要になる。 私が知っている言語では、アクセントや声調などが一定している。それが変わってしまうと他の言語になってしまう。ここでも、日本語は特殊なのだと思う。地域ごとにイントネーションが全く変わってしまうのに、それ自体が言語の相互理解には大きな影響を与えないからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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