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私が「自己同一性/アイデンティティー」という概念を持ち出したのは、記号の研究が発端である。前に、ともちゃんさんのコメントの返事でも書いたが、私は心理学から入ったわけではないので、エリクソンのアイデンティティー論は参考にならない。
我々のアイデンティティーを形作っているのは、記憶の持続性である。もし我々が、短期記憶だけ目の前のことに対する対処はできるがで、その対処した記憶が長期的に保存されなくなると、その時点から、その人のアイデンティティーは再構築されず、記憶喚起可能な以前の記憶によるアイデンティティーに閉じ込められることになる。 この例は、既に人間としてのアイデンティティーを確立した個人の場合であるが、人間が生まれてから成長する過程においてどのようにしてアイデンティティーを確立していくのであろうか。と言っても、ここでは、幼児の心理的な発達を扱うのではない。人間の記憶のシステムががどのようにしてアイデンティティーを確立するのかを探ってみたいと思う。 動物と人間を比較した場合、一見、この違いを伺うことはできない。特に高等な生物となると、自分が経験した事象をちゃんと覚えていて、その経験を基に効果的な対応をすることができる。 では、何が違うのだろうか。この鍵は、記号のもつ「前後への二極性」にある。 聴覚発声言語の音素の大きな二つのカテゴリーである子音と母音を分けるのが、記号の持つこの「前後への二極性」で、我々が聴覚で認識する音声が「子音ー>母音」という形で分離、或いは離散することを意味する。 オウムなどの動物が、人間の発声を聞いて自らで音で再現する場会、これは一定の長さの音声を記憶し、それを録音テープやレコードで音を再生するように物理的な特徴としてとらえていると考えられる。このため、いくら人間の音声を巧みに真似できたとしても、その動物は、その発話の下になる言語の音韻体系を習得して、それに対応する音素を選択して発音しているわけではないのである。 この「前後への二極性」は、いわゆる言語の直線性とは相容れない。何故なら、「子音、そして母音」という順番による認識ではなく、前後を一つの単位として認識しているからである。これは、日本語の場合は顕著であるが、その他の言語でも同様である。 音声が前後に二極化するという場合、始めと終わりのある一つの単位として一度にとらえなければならない。このために、我々は時主な記憶喚起のメカニズムを持っていると考える。つまり、我々は耳に入ってくる音の波を、リアルタイムに直線的に受信しながら音素を特定しているのではなく、一旦聞いた音を頭の中で時間差で再生しながら聞いているのではないかということである。 単に時間差で再生するのであれば、エコーがかかっているようになるが、そうではなく、聞いた音声とズレて再生(記憶喚起)されたもの同士が一つに融合するとき、時間差のために物理的な時間軸にそって二極構造が形成されるのである。そして、これは何も聞いていない場合や、音がもう終わってしまってしまった場合でも、記憶の中の音声がズレて再生することで、二極構造を作り出すことができる。 これは、聴覚チャンネルに特化した場合の記号の成立を例に取っているが、視覚チャンネルでも同じことが起きている。手話のサインを平面に記録する場合、サインの最初の手の位置や顔の表情を写真やイラストで図示し、それにサインの最後の手の位置や顔の表情を重ねて、その間の特に手の移動の軌跡を矢印で示すことになる。つまり、手話の記号であるサインも、子音と母音に前後に分裂する聴覚発声言語の記号と同じ二極構造を持っているのである。 では、聴覚、或いは視覚という知覚チャンネルに特化して言語を発達させる前に、人間はどのようにして、この「記号の二極構造」を体得するのだろうか。 我々が、自分の経験を思い起こすとき、それは全身の知覚、そして運動の記憶を伴う。あたかも、自分が体験したシーンが、単なるスチル写真のようによみがえるるのではなく、映画の一シーンのように、周りの風景と自分の取った行動すべてが一つになって展開する。 これに関しては、動物でも同じであるが、人間の場合、記憶喚起のサイクルが、非常に短いサイクルとして存在し、それを我々が無意識に「今」の意識と融合させていると考えられる。今さっきの自分と、正に今の自分が一つに融合されることにより、人間は自己同一性を獲得したのである。 ただ、「自己同一性」というのは多少の語弊がある。なぜなら、過去の自分と今の自分を一つに融合し、新しい自分に更新しているのであり、それは厳密な意味では「同一」ではなく、あくまで「相似」であるからである。相似である点を考慮すると、人間の自己同一性は、フラクタル構造とも比較することが可能になる、フラクタル構造とは「自己相似性」であるからである。 人間の場合、「自己相似性」ではなく「自己同一性」になるのは、そこに「記号」由来の「名前/シニフィアン(シニャン)」があるためである。名前が同じである限り、一つの同じアイデンティティーを持たなくては話の辻褄が合わない。だから、日本では、子供の成長に合わせて名前を変える習慣があったし、社会的シチュエーションで名前を使い分けるペンネームや芸名、ネット上のハンドルネームなどはよく使われている。 人間の「自己同一性を実現するための、相似的な過去と現在の自己の融合による自己の更新サイクル」を獲得することは、我々が人間として社会生活をする上で必須である。そして、これを容易にしているのが第一言語の習得である。言語というのは、既に先人たちが長い年月をかけて、自らのアイデンティティーの分身となる特定の知覚チャンネルに特化してできた記号を基に形成された語彙(概念)を内包したもので、記号同士の結びつきとなる文法も、アイデンティティーを基にしている。文法が単なる規則ではないのはこのためで、現時点で言語学者達は「正しい」文法の記述方法を知らないままに言語学をしている。 そして、別の言語の習得が行われる度に、その個人のアイデンティティーは分裂する。つまり、一つの個人の中に複数のアイデンティティーが存在することになる。 また、「自己同一性を実現するための、相似的な過去と現在の自己の融合による自己の更新サイクル」が何らかのストレスでうまく機能しなくなると、多重人格あるいは「解離性同一性障害」を発症することになる。 最後に念を押しておくが、これに関わっているのは、記憶喚起のメカニズムである。知覚を含めた認知システムも記憶喚起を使っているのであり、これら全てを記憶喚起という視点でとらえなおさなければ、人間に固有の現象である言語を理解することはできない。 この重要性に気が付く人が一人でも出てくることを切に願う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.10.13 00:41:38
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