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カテゴリ:新ソシュール記号学
何かの存在を定義するにはその存在を認める主体が必要。
哲学的に見るとその主体は我々人間になる。 存在を記憶と言う「離散分裂(再)融合循環サイクル」で置き換えると存在を認める主体の必要が無くなる。 何故なら自分の存在を認めてくれる相手を自分を離散的に分裂して生み出す事が可能だから。 伝統的な存在論には「人間の介入」が必要になるが、記憶に基づいた存在論の場合、人間の視点が要らない。 宇宙が生まれた時、人間は存在していなかったから、伝統的な存在論を持って宇宙を語る事は出来ない。 記憶と言うものは、自分自身と自分の片割れとの再会によって実現される。 二つの「自分」が同じものだと確認した時に、自分自身の存在を確信出来るが、それは儚いもので、これを繰り返し確認しないと、自分自身の存在は維持されない。 それは、記憶と言う「自分自身を離散的に分裂して再融合して自己更新すると言う過程」が、時間の流れを生み出してしまうからである。 この循環サイクルは、もう一つ自己と言う存在の進化を生み出す。 進化すると言う事は、その前とは違う自分になっていると言う事で、ここで自己同一性は維持されなくなるが、この進化は一定方向に進む事で時間の流れを生み、その進化の軌跡は、時間と同時に生まれた空間上に記憶として刻まれて行く。 記憶と言うのは、自己同一性の実現を求めながら進行する、自己相似性の進化を推進する循環サイクルである。 時間の流れに抗って自己同一性を実現するものを、我々は押し並べて「存在」と呼んでいるが「時間の存在」が大前提となっている。 記憶とは、存在と時間の両方を内包するメカニズムである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.04.15 02:39:00
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