|
カテゴリ:新ソシュール記号学
ここ数日で、自分が認識している「差異に根差した言語の現実」を、言語学者たちを中心とした他人が全く認識していないことに気が付いたのので、それを認識してもらう論法を現在模索中。
実は当初、私も認識していなかったが、ソシュールの「言語には差異しか存在しない」に徹底的に拘った結果である。 ソシュールの「言語には差異しか存在しない」には、実は「sans termes positifs(直訳:肯定的な用語のない)」という説明が付加されている。 少し前に、この意味を考え始めたのだが「記号」をどう定義するかによって変わってくる。 まず「signe(記号)」は。認知的な認識であるということ。 日本語では「記号」と訳される元の仏語は「signe(サイン)」であり「何かを示す事」になる。 これは言語の枠組みではなく「認知をベースにしたコミュニケーションの枠組み」に該当する。 「記号」を「言語の枠組み」で定義しようとする場合「進化する記憶」という用語を私は考えた事がある。 言語的学的な「記号」というのは、認知の枠組みで考えると、ソシュールが言う「terme positif(肯定的な用語)」となる「signe(サイン)」になるが、これは「記号」を言語学的な枠組みで考えたときの条件となる「sans termes positifs(肯定的な用語なしに)」を満たさない事になる。 この「Dans la laugne, il n'y a que des differences sans termes positifs.」の説明には、ソシュールの一般言語学講義でも結構な文量が費やされているが、最初に読んだとき、具体的な意味が最初とれないでいた。 それで、言語の枠組みと認知の枠組みの場合分けができていない事が問題と理解した。 そしてソシュールが選んだ「signe」という仏語の用語が「言語学的な記号」を指すには適切ではないという結論に達した。 もし「signe」という用語を維持するとしたら、言語学的な枠組みで考えた時、これを別の用語で説明し直す必要がある。 そこで私が注目したのが言語における記憶喚起である。 人間の言語には2つの知覚チャンネルが利用可能である。 一つは、音声言語を生む聴覚発声チャンネルで、もう一つは、手話を生む視覚身振りチャンネルである。 これら二つの知覚は、まったく違う物理現象を認識するためのものであるが、どちらも知覚された途端に記憶喚起できるという共通点がある。 私が知覚の違いを超える共通点となる記憶喚起に注目したのには、別の理由がある。 音素の弁別をする為のミニマルペアと言い操作を聴覚だけで実行する為には、音声(音節)を前後に分節する必要があるのだが、物理的な刺激のリアルタイムに知覚では不可能であり、逆行する必要が出てくるのである。 例えば日本語の場合、「か(蚊)」と「は(歯)」と言う二つの単語がミニマルペアを形成する事を認識する為には、音節が時間軸に沿って前後に分節される必要があるのだが、音声のリアルタイムな知覚では不可能である筈なのである。 聴覚で知覚されたものが、何らかの形で二極化する必要がある。 ここで私の論法は大きな障害に出会う。 ミニマルペアと言う操作は聴覚を通して知覚される音声(音節)同士の差異により、音素が「時間軸上に直線上に連鎖して展開する座標」として認識される事を証明すると私は考えているのだが、一般的に「音素は(音声)言語の最小単位である」と言う認識がある。 この「言語の最小単位」と言う認識が問題だと私は思う。 聴覚による音声(音節)同士の差異の認識によって成立する音素は、あくまでも「時間軸上に直線的に連鎖して展開する座標」である筈なのだが、初めから「単位」が与えられている事で、音素同士の差異が音素の音声学的な属性に変換されてしまう。 音声学から音韻論が派生した際、本来なら音声の認識を聴覚による音素の弁別に移行しなければいけなかったのに、音素の記述に関して、音声学の影響を完全に排除出来ないまま音韻論が確立されたと言語学者達が思い込んでしまった事が原因であるが、もう一つは音素を文字で記述する事を疑問視しない点。 私が何故「文字による音素の記述」を疑問視するかというと、音声言語の記号の物理的な媒体である音声の本来の性質が、文字表記を可能にする物理的な媒体とは全く相いれない性質のものであると考えるからである。 音声は発せられた途端に消えてしまうが、文字は光さえあれば継続して消えずに残る。 儚い存在である音声が聴覚によって分節され、其々の自己同一性が識別される音素は、我々の記憶の中で生成され記録されるが、物理的な平面上に視覚的なコントラストとして記録される文字は、その存在が、先ず時間に抗って存在できる物理的な媒体によって保証され、それを我々が好きな時に知覚できる。 私は音素と文字を支える媒体の違いにより音素を文字によって記述する場合、この違いを十分考慮する必要があると考える。 何故なら、我々が文字を使って音素を記述する場合、音素の本来の性質が失われたり、歪められたりする危険性があり、これを無視したら言語学は成立しないと考えるからである。 これは言語学における存在論と言い換える事が可能である。 私は言語学をしようと決めた時、ソシュールの「言語には差異しか無い」を座右の銘とした。 そして「差異」の反対語が「単位」であると理解した。 だから、音素の文字表記という「物理的かつ視覚的な単位による記述」に疑問を持ったのだ。 私は先ず「音素は(音声)言語の最小単位である」という命題を否定する事から始めたのだが、これは更に進んで「音素は単位である」という概念自体を否定する迄に至った。 ソシュールの「言語には差異しか無い」を言語学研究の出発点とする私としては、一種当然の帰結であるといえるかもしれない。 先ほどは「存在論」という用語を使ったが、音素の文字による表記を通した言語学は、少なくとも科学認識論的な論議をするべき案件である。 これは、伝統的な一般物理学と量子力学との関係に似ているかもしれない。 ソシュールの「言語には、肯定的な用語は無く、差異しか存在しない」が正しい命題であるとするなら、音素を文字と言う時間の経過に抗って存在出来る物理的な単位のよる記述は「正しい科学的なモデル化」であるとは言えない。 言語学は、一般物理学には見られる物理現象の法則化をモデルにして発達したのだが、音素の持つ本来の「差異によってのみ存在出来る」と言う性質を反映した新しい言語学を構築する必要がある。 前者の言語学は、実は文法学で、後者はソシュールが構想した一般言語学になると言うのが私の考えである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.04.18 18:27:09
コメント(0) | コメントを書く
[新ソシュール記号学] カテゴリの最新記事
|