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カテゴリ:記憶科学
私には数学の素養が全く無いので、量子力学の方程式を理解出来ないのだが、言語の記号の研究を通して、何故量子力学が我々の時間や空間の感覚とずれているのかは説明できる。
量子が活動する時空間と我々人間が活動している時空間は。同じ動的なメカニズムで生成されているが次元が全く違う為である。 量子と記号を成立させている動的メカニズムが、波動しか無い混沌の中で、あらゆる存在を支える自己同一性の進化が発動した事によって、混沌が離散化して、波動から粒子を誕生させる「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」であるが、この「粒子」と言うのは語弊があるので「離散子」とでも呼ぼうか。 粒子が何故、問題かと言うと我々人間は粒子に「量」と言う我々の言語活動に於ける具体的な認知対象を見てしまうからである。 量子というのは定義からして「離散的なもの」であり、この段階で我々が普通に持っている「量」と言う概念とは相容れない。 そして実は、言語の記号も離散的なのである。 言語の記述に離散と言う概念が出て来るのは音素の離散性と言う形で、これは一般的に、二つの似た子音(例:清音と濁音のペア(日本語の「か」と「が」))がある時、実際に発音された発話の中では、これらの子音の間には中間的な子音は存在せ、必ずどちらかの子音として聴き取られると言う事である。 今、ふと思ったのだが、これは子音の静音と濁音のペアに限らない。 例えば、日本人が英語やフランス語の /v/ と /b/ や /r/ 時 /l/ の聴き取りが非常に苦手と言うのは、日本語話者の耳には、元の言語の音韻体系では存在する二つの子音の間に存在する離散的な関係を聴き取る事が出来ないからである。 しかし私は音素の離散性は子音や母音単独で観察されるのではなく、子音と母音に関係に於いて発動するのが基本だと考え、それは日本語の仮名を観察するとよく分かる。 「か」と言う仮名は日本語話者にとっては一人の単位であるが、音韻論に沿って分節すると /ka / と言う連鎖する二つの音素になる、 私は子供の頃、多分「かな」を習いたての頃だと思うが、「か」を続けて発音すると、どうして最後には「あ」になってしまうのか、理解できなかった。 今の私の理解では、日本語話者は「か」の中に、時間軸に沿って前後に二極化して分節する離散的な構造を認識しているからと言う事になる。 私はここから、ソシュールが提唱した「記号の恣意性」に代わる「記号の離散性」と言う概念を導き出したのだが、実は、この概念は「音素は言語の最小単位である」と言う命題と矛盾する。 この責任の一端は実は一般言語学の枠組みの中で記号と言う概念をを提唱したソシュール本人にあると私は考える。 ソシュールは一般言語学を完成させていなかったのに後発の言語学者達が勝手に解釈してしまったのが原因である。 私は記号の恣意性の解釈は、記号は二層の価値体系であって、其々の価値体系の特定の座標同士が引き寄せあって一致する所に特定の記号が確立されるが、価値体系は互いに独立している事。 音韻体系の二大カテゴリーである子音と母音は、記号の離散性によって、互いに補完関係にある離散的な自己同一性が保証される事になるが、現在の音韻論や言語学全体では、この様な視点は存在しない。 それは「音素が言語の最小単位である」と言う命題が言語学に留まらず幅広く信じられているから。 「音素は言語の最小単位である」と言う命題が広く信じられているのには、幾つか理由が考えられる。 その内で最大のものが、音声言語が言語学に於いて絶対的に優先される研究対象であると言う暗黙の了解である。 これが記号の恣意性の間違った解釈を助長し、手語を言語学の範疇から追放しかけた。 もう一つ学問に於ける実用性が関連するのだが言語学をする為には文字による記述が必須である事。 元々西洋では既に存在する書記言語の文字を使って言語の記述が行われていたが音素を識別して音韻体系を確立する事で文字を持たない音声言語の記述も可能になり単位としての音素の有用性が認められた。 文字の有無を問わず音声言語全般に於ける記述が可能になった言語学者の成功体験は、その後、音の無い視覚身振り言語である手話にも適用され「手話の音韻論」と言う分野を生む。 一つの論理を突き詰めると、こう言う脱線が起きるが、このお陰で手話が言語であると言う認識が広がったのも事実である。 量子のと記号の離散性、どちらも波動でしかない混沌からの離散化によって誕生した。 ここで私が「混沌からの離散化」とするのは、一旦離散化して量子や記号が確立された後も、波動で出来ている混沌は、両者に共通する「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」が発動する為のベースとなっているから。 この場合「混沌は存在する」と言うと語弊がある。 我々が存在であると認識しているのは、量子や記号など離散化する事により我々人間に観察出来る様になったものだけだからである。 私はこの「宇宙のあらゆる存在を支えるの媒体となるもの」を「記憶と言う進化する自己同一性」であると考えている。 誕生の時系列上に誕生したもう一つの「離散子」が量子と記号の間にある。 それが遺伝子。 これで「混沌からの離散化」と言う過程が三つ出揃った。 其々の離散化過程では、離散的な時空間が確立され三つの時空間は三層に重なっているが、其々の時空間は独立して離散化循環サイクルを継続している。 我々が量子の「行動」を観察していて不思議に思ってしまうのは、自分自身の「主観的な意識」の中で量子が活動していると見做してしまうから。 例えば、光年と言うのは、光の進む速度で移動しても何年もかかると言う事だが、これは我々が物理的に移動する経験を投影しているから出て来る発想である。 言語学で有名な命題の一つに「音素の線状性」と言うのがあり「音素は時間軸上に一つずつ順番に並ぶ」とされているが、 記号の離散性に照らして考えると、全く別の解釈が可能になる。 音素を弁別(識別の前段階)する為の基本的な記憶操作がミニマルペアであり、この場合、音節が最小単位となる。 つまり、ミニマルペアを実践する段階では音素は未だ最小単位ではない事になる。 また、母音を核とする音節への分節以外にも、複数の音節にまたがる強弱や抑揚のアクセントや一つの音節上で実現される声調などがあり、これらも重要な言語の形を形成し、特定の単語の意味を識別する為には必須である。 特定の音声言語に於いて一つのミニマルペアが成立するには二つの単語の意味が確実に認識されている必要がある。 音節による分節に加えてアクセントや声調なども単語の意味の理解には必須であり音韻体系を構成する基本要素として認識されるべきであるが音韻体系の最小単位と認定されたのは音素だけ。 音素が整然と一列に並ぶと言っても、その順番を決める為に不可欠な他の音韻学的な要素が全て剥奪された所に音素の線状性が成立していると言うのが私の解釈で、これは音素は言語の最小単位であると言う命題を言語学者が物理学の絶対法則の様に受け入れてしまった為に発生した音素の誤った解釈である。 音節による分節と言うのは時間軸上に順番に並んでおり、音節の線状性は成立するが、音節の内訳である子音と母音の存在を支える前後関係は、音節が前後に二極化される事によって初めて実現される。 この二極化と言うのは物理的及び生物的な過去から現在を結ぶ時間軸に逆行する事によって実現される。 つまり生物認知的な時空間に於いて、個体の認知的な経験を記録した認知的な記憶が蓄積する事によって混沌が作り出される。 認知的な記憶は一つ一つは違うが、其々が他と違う事を保証しているのは、自己意志の発動を中心として知覚から反応行動、そしてフィードバックで構成されるアナログ的な構造。 この混沌から離散化が起きると言語の記号が生まれる。 この記号と言う用語は仏語の「signe」の日本語訳であるが、記憶の「記」が使われている点で、こちらの方が現実を反映していると思う。 それにソシュールの記号とは定義がかなり違うので新しい用語を作る必要があるだろう。 記憶子はどうか? 昔、言語に於いて単位の代わりとなる「差異によってのみ自己同一性を確立するもの」の概念を記述するのに「差位」と言う造語をした事がある。 差位を今後、使えるか分からないが、記号の代わりに認知的な記憶の蓄積が作る混沌から離散化の循環サイクルによって生まれる離散子を記憶子と命名しよう。 離散子は、量子と遺伝子と記憶子を纏める上位概念。 混沌を構成するもの同士の間の波動の差位がベースとなって「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」が発動すると離散子が確立されるが、これは恒常的に働く循環サイクルによって、その存在(自己同一性)が維持され、更新されながら進化して行く。 我々が観察している宇宙では、この「混沌からの離散化」が既に三度起きており、その度に新しい離散的な時空間が形成された。 一番最初の時空間の誕生が、所謂ビッグバンに該当するのだろうが、私は宇宙の活動は循環していると考えるので、それは宇宙全体の中では、単なる一つの始まりに過ぎない。 少なくとも我々の住む太陽系の誕生はあった筈なので、太陽系の誕生をリトルバンと呼ぶことも可能。 太陽系の地球と言う惑星の上で生命が誕生したが、これは、太陽系を支える物理化学的な時空間をベースにして形成された混沌から離散化の循環サイクルが発動し、生物認知的な時空間の誕生に繋がった。 リトルバン後の二つ目の離散化の循環サイクルで生まれたのが、生命の身体と認知活動を記憶し進化させる遺伝子と言う離散子。 私は遺伝子には突然変異と自然淘汰以外に、外界の物理化学的な記憶を内在化する別の進化のメカニズムが備わっていると考える。 それを明らかにするのが「記憶遺伝子学」。 「記憶遺伝子学」は細分化し過ぎているので「記憶生物認知学」としよう。 すると量子力学は「記憶物理化学」で、その次に発動する離散化の循環サイクルを研究する学問は「記憶言語意味学」になる。 これら全ての学問を総合して「記憶科学」と呼ぼうと私は思っている。 これが私のライフワーク。 記憶科学の構想は、初期段階で「進化する記憶」と言う概念を見つけ、宇宙(太陽系)の誕生、認知主体としての生命の誕生、そして言語を操る事で自己意識を確立し進化させる人間の誕生の裏に全て全く同じ動的メカニズム「離散分裂(再)融合更新循環サイクル」があると理解した時点で既に持っていた。 今まで、自分独りで研究を続けられたのは、このヴィジョンを持っていたからだと思う。 今から思うと、周りの賛同者は皆無に近かったし、「特に根拠のない自信」ではあったが、私は、これに人生をかける決断をした。 四半世紀かけて、ようやく形になりかけているが、これより先は独りでは出来ない。 でも、まだまだ独りでやらなければならない仕事と言うか思考実験が残っているので、もうしばらくは独りでコツコツと研究を進めたいと思う。 私の特殊な思考実験を、他人と共有する事は多分、出来ないと思うので、少しでも具体的な形で、人に説明出来る様にしたいとは思っている。 私の「クオリア」は、認知科学では、理論的に他人との共有は出来ないと言う事になっているが、私は、それを実現しようとずっと前から考えていた。 それに認知科学の枠組みでは、言語もクオリアも、更に意識の問題も解決出来ないと考えたので、自分の心を実験台にする思考実験にかけたのである。 認知科学は動物であれ人間であれ認知主体の心をブラックボックスとして扱い、その中を探る為の測定実験を考案する事で進歩する。 私の提唱する記憶科学は我々が観察出来る三層構造を持っている記憶と言う混沌から離散化されて生まれた情報が、一種、主体となって進化する過程を研究する学問になる。 私が脳科学では意識の問題を解決出来ないと考えるのは脳細胞間の電気的な信号と言う物理的な情報を集めて認知システムのクオリアとそれをベースに離散化して生まれた言語意味的な時空間に形成される人間の自己意識を説明しようとしているからで、離散的な次元の違いを全く考慮していないのは致命的。 オーストラリアの哲学者のデーヴィッド・チャーマーズ氏が提唱した「意識のハードプロブレム」を、私が最初に知ったのは、数年前の事だが、これは「脳と意識の関係を探ると言う枠組み」である時点で、理論的に間違っていると今では理解できた。 そして、現在の西洋の哲学で、「Consciousness」と言う概念を「人間の主観的な自己意識が現実と感じる総合的なクオリア」と定義する事が、意識の問題を解明出来ない最大の要因であるとの理解に至った。 ネットで定期的に、新しい動画を探して視聴しているのだが、全てがこの視点で語られている。 宇宙の誕生から現在迄の進化の歴史を理解するには、この宇宙が持っている離散的な時空間の三層構造を知る必要がある。 三層の其々の時空間を説明するには、其々の時空間に対応する科学が必要で、量子力学は、その一つであるが、これでは十分ではなく、もう二つは未だ学問として成立さえしていない。 二つ目は、遺伝子と生命の進化の関係を探る学問で、三つ目は、ソシュールの記号学を修正して新しい解釈をしたものである。 これら三つの学問は密接に絡み合っている。 離散化は、波動を持つものが蓄積した所に生じる混沌をベースにして発動するので、離散的な時空間同士の関係を理解するのが重要。 全てが一つの大きな循環サイクルとなる為には、三番目の離散的な時空間である言語意味的な時空間が、新たな混沌の状態を作ると考えると自然である。 ここで私の思想は、オカルトやスピリチュアルと交わる。 我々の自己意識が、多分我々の死後に、何処かに集積し、そこで蓄積され新たな混沌を作る。 その混沌が、別の新しい宇宙の誕生に繋がるのか、それとも我々の宇宙の中で、もう一つ、新しい太陽系を作るのか、それとも、今の宇宙が終わって、また新しく始まるのか、今の私には分からない。 でも、今の内に、恐れずに、こう言う思考実験をしておこうと思っている。 どちらにせよ、私の宇宙の歴史は混沌と言う自己同一性が維持出来ない状態から「自分を知りたいと言う意識」が発動した事が全ての始まりであって、オカルトやスピリチュアルに始めから足を突っ込んでいる。 意識の進化の軌跡を刻むものが記憶であり、自己存在、自己意志、自己意識と進化してたのだ。 今日は結構進んだ。 それは、嬉しい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.04.15 19:45:53
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