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2010.04.04
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カテゴリ:歴史・
391年、倭の勢力が一時、新羅、百済を征服して高句麗と戦う。(高句麗好太王碑文)

400年、倭の勢力が高句麗に追われて新羅、百済から退く。(高句麗好太王碑文)

512年、大連(おおむらじ)大伴金村は伽耶4国(任那4県)を百済に割譲する。

562年、日本は任那を百済に引き渡して朝鮮半島から撤退する。 このとき百済と交戦した記録はなく、日本と百済の関係は良好であったと考えられる。

 660年、新羅が百済を滅ぼし、668年には唐と結んで高句麗を滅ぼす。

662年、百済王の要請により日本は百済復興軍を朝鮮半島に送るが、663年白村江で唐、新羅の連合軍に破れる。 このとき日本は数千人の百済遺民を受け入れる。

 滅亡する百済に日本が援軍を出したことは、百済の友好的資質によるところが大きい。 戦略的見地を離れて国家が編成した友好援軍は、百済に対する日本軍を除いて世界史に例がない。
 665年、日本において百済人400余人を近江国神前郡に移住させる。
 666年、日本において百済人2000余人を東国に移住させる。
 669年、日本において百済人700余人を近江国蒲生郡に移住させる。
 676年、新羅は朝鮮半島から唐の勢力を駆逐して朝鮮半島を統一する。 首都は慶州である。 

新羅が唐と結んで百済、高句麗を滅ぼしたことを朝鮮民族に対する裏切りとする批判は当たらない。 このとき朝鮮民族は未だ存在せず、韓族の国新羅が?(わい)族、扶余族の国を打倒吸収したに過ぎない。

892年、?(わい)族は朝鮮半島南端に武州を首都とする後百済を起こす。

 901年、漢州の泰村王が新羅から自立、918年には王建が高麗を建国する。 高麗が高句麗の後継を明確に示した名称であることから、王建は扶余系であったと推測される。 高麗は後百済、新羅を滅ぼし935年朝鮮半島を統一する。

    698年、朝鮮半島北部ではシベリア系末靺鞨(まっかつ)族の大祚栄が震国を建国、713年渤海と改称する。

 926年、渤海はモンゴル系契丹族により滅亡、さらにシベリア系女真族の金が、契丹族の遼を駆逐して朝鮮北部にまで勢力を広げ、高麗を圧迫する。

 古代玄菟郡の地は扶余、沃沮、把婁、扶余、靺鞨、契丹、女真、モンゴルと、シベリア系満州族とモンゴル系遊牧民の行き交う土地になった。

 このことは咸興を中心にした北朝鮮地域より北部の人々は、中国東北部の人々と民族的に共通するところが多いことを示している。

963年、高麗は北宋に服属、994年、契丹に服属、1126年、金に服属、1259年、モンゴルに服属する。 

強いものには服従する、それが朝鮮の歴史である。 当時東アジアから中央アジアの民族で、形式的とはいえモンゴルの支配から独立を維持したのは吐蕃(チベット)と高麗だけである。 

地勢条件を考えれば高麗が独立を保ったことは奇跡に近い。 高麗は独立を維持しただけではなく、モンゴルを利用して勢力の拡大も図っている。 高麗王はモンゴルに対して日本の攻略を強く進言している。

 1274年、文永の役、1281年、弘安の役は共に失敗した。 元船には農耕具が積まれていたことからも分かるように、侵略軍は日本に上陸定着する意図があった。 

 モンゴル人は農耕をしないので、高麗に日本攻略の意図があったことは明らかである。 高麗の計算違いはモンゴル軍が思いのほか弱かったことだ。

 馬を降りたモンゴル兵は海辺での戦いに慣れていなかった。 高麗のもう一つの過ちは日本進攻のための造船が、森林伐採により国土の自然を荒廃させたことである。 自然破壊がその後の朝鮮半島の繁栄に負の影響を与えたことは想像に難くない。

高麗の日本侵略を現在の日本が非難するのは不当である。 当時のモンゴルの侵略をもって現在のモンゴルを非難する国がないように、当時は侵略、被侵略の関係は世界史において普通のことだからだ。 

既述したように満州から朝鮮北部にかけての歴史は、狩猟採集系、遊牧系諸民族の興亡の歴史であり、数多くの民族が侵入、興隆、滅亡していった。

 狩猟採集民が牧畜、農耕民に比べて経済的、文化的に劣っているのではないかとする見方は正しくない。 当時はまだ自然が豊かで、自然の中に富があった。

 清を建国した満州女真族は、動物の毛皮(クロテン、カザンリス)を富として力を蓄えていた。 その後シベリアを東進してきたロシアも、これらの富の獲得を目指していたのである。
14世紀後半の元朝末期には中国各地に群雄が割拠する。

1368年、群雄の一人、朱元璋が金陵(南京)を首都に明を建国、北上して北元を圧迫する。 高麗の将、李成桂は明討伐を命じられるが、明討伐軍はきびすを返して高麗を攻略、1392年李氏朝鮮を建国する。

李成桂は女直の人、つまり女真人である。 このとき明は宗主国として李成桂に朝鮮の国号を与える。

李氏朝鮮は1592年、壬辰の乱(文禄の役)、1597年、丁酉の乱(慶長の役)を戦い、明軍の救援を得て豊臣秀吉の侵略軍を追い返した。

 このとき明軍の将、陳隣と和睦して日本へ帰る途中の小西行長軍を包囲した李舜臣は、救援に駆けつけた島津義弘軍と戦い、命を落としている。

 和睦後に追い討ちをかけて相手を滅ぼすという戦術は、歴史において珍しくない。 日本では一向宗と戦った織田信長軍が、和睦後城を出た一揆軍を襲った例がある。

 1615年、徳川が豊臣氏を滅ぼした大阪夏の陣も、前年の冬の陣和睦後の出来事である。 中国では漢の劉邦が項羽と和睦した後、楚に帰った項羽を垓下に追って攻め滅ぼした。

 壬申、丁酉の乱で朝鮮半島が戦場になったことだけが朝鮮半島荒廃の原因ではない。

 日本軍は兵糧を日本から持ち込んだが、明軍は「用を国に取り、糧を敵に因る」という孫子の兵法に従い兵糧を現地で調達した。

 日本軍の数倍に及ぶ兵力を出した明軍兵糧の現地調達は、現地経済と住民の生活を破壊して、その後に大きな後遺症を残したのである。

 このとき日本軍が持ち込んだ兵糧の漬物と唐辛子がキムチ文化の元となり、日本にはキヨマサニンジン(セロリ)が伝わった。

1616年、シベリアツングース系女真族(満州女真族)の太祖ヌルハチが後金を建国、1636年国号を清と改称する。 同年李氏朝鮮は清に服属、国内から明の勢力を徹底的に駆逐する。 このとき以来朝鮮半島に華人(華僑)は存在せず、中華街もない。

1884年、甲申の政変で親日改革派のクーデタが失敗する。 当時の朝鮮半島の様子は「朝鮮紀行 英国婦人の見た李朝末期 イザベラ・L・バード」(“Korea and Her Neighbors” by Isabella Lucy Bird)に詳しい。

 1897年、国号を大韓とする。

大韓首相、李完用は日本との合併を画策、合併に反対した伊藤博文は1909年、朝鮮人に暗殺される。

1910年、朝鮮半島は日本に併合されて李氏朝鮮の歴史は終わる。

 1945年、日本が第二次世界大戦に敗れると、朝鮮人は日本人に対して徹底的な弾圧と排斥を行い、日本の勢力を朝鮮半島から駆逐する。

 さらに李承晩は竹島を占領、対馬を要求した。 一方で朝鮮半島の統合は実現せず、1948年、北部に朝鮮民主主義人民共和国、南部に大韓民国が成立する。

 1950年、朝鮮戦争勃発、1953年、休戦協定が成立して現在に至る。

 第二次大戦の終結と朝鮮戦争までの時期は朝鮮半島の混乱期で、大勢の朝鮮人が災いを逃れるため日本にやって来た。

 当時は難民、不法移民という言葉はなく、日本はアメリカの占領下にあったため、何も対処することができなかった。

 入国者数は100万から200万に上ると推測される。 現在日本にいる在日朝鮮人のルーツの9割以上が、この時期の密入国者である。

 朝鮮には「溺れた犬は棒で叩け」という諺がある。 敗者は徹底的に攻撃して利権、財産を奪い取るという意味である。

 日本海の名称を“東海”に改めろという要求も同じ脈絡にある。 従来朝鮮では日本海を東海、黄海を西海と呼んでいた。 しかし名称変更要求は日本海だけで、黄海(Yellow Sea)を西海に変えろという要求はない。

 敗戦後の日本に対する朝鮮の仕打ちは特別なものではなく、清に敗れた明に対する仕打ちと共通するものがある。

 壬辰丁酉の乱に明から援軍を受けた恩は考慮されていない。 日本人から見れば非常に違和感を覚える行動であるが、これは孫子の兵法に由来するもので、世界的に見ればむしろ普遍性がある。

 孫子は言う、「敵が退くなら、我々は前進せよ」。 ロシアは敗戦間近い日本を攻撃して、千島列島、南樺太を奪っただけでなく、いわゆる留萌釧路線以東の北海道を要求している。 争い事では勝ち馬に乗ることが基本で、滅亡する国家に同情して強敵と戦ったのは、世界史において古代の日本だけである。


http://koreaunion.hp.infoseek.co.jp/main.html#one





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最終更新日  2010.11.29 19:38:33



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