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カテゴリ:歴史・
2010年12月10日 朝刊東京新聞 牽牛子塚古墳(後方)の隣で見つかった古墳の石室。破線で囲まれた部分にひつぎが置かれていた=奈良県明日香村で 大化の改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智(てんじ)天皇)の母斉明(さいめい)天皇らの墓と事実上、特定された国史跡・牽牛子塚(けんごしづか)古墳(七世紀後半、奈良県明日香村)の隣で、同時期の古墳や石槨(せっかく)(石室)が見つかり、明日香村教育委員会が九日、発表した。 日本書紀は六六七年二月の出来事として「斉明天皇と娘間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した墓の前に、中大兄皇子の娘大田皇女(おおたのひめみこ)を埋葬した」と記しており、今回の発見と一致。 見つかったのは大田皇女の石室とみられる。古墳時代終末期の天皇家特有の八角形墳である牽牛子塚古墳を斉明陵と考古学的に裏付ける重要な史料となる。 宮内庁は古代の文献から奈良県高取町の別の古墳を斉明陵や大田皇女の墓に指定しているが、今回の発見で研究者から指定見直しを求める声が一層強まるのは確実だ。 村教委によると、見つかった古墳は、地名から「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と名づけられた。 牽牛子塚古墳の南東側に連続する形で造られており、石室は昨年始まった牽牛子塚古墳発掘の際に出土。地震の影響などで墳丘が削り取られ、これまで古墳と分からなかった。 石室には重さ約八十トンの石材が使われていたとみられる。構造は明日香村にある石室「鬼の俎(まないた)・雪隠(せっちん)」と同じで、ひつぎを置く台を加工した板状の石の上にドーム状の石をかぶせる仕組み。ドーム状の石は大半が盗掘で割られていた。 漆塗り木棺のものとみられる破片も見つかった。ひつぎを置く空間は長さ二・四メートル、幅九十センチ、高さ六十センチ。墳丘の形は方形か多角形の可能性が高い。牽牛子塚と越塚御門の石室間の距離は約二十メートル。 現地見学会は十一、十二の両日、いずれも午前十時~午後四時。 <大田皇女> 生没年は不明。中大兄皇子(天智天皇)の長女で、母は蘇我氏の流れをくむ遠智娘(おちのいらつめ)。妹は持統天皇。母は651年に弟の建皇子(たけるのみこ)を産んで、間もなく死亡。妹とともに叔父の大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)のきさきとなる。 斉明天皇の時代だった661年に父や夫とともに朝鮮半島の百済救援の戦争のために九州へ赴くが、その途中で大伯皇女(おおくのひめみこ)を産み、663年には娜大津(なのおおつ、福岡市博多区付近)で大津皇子(おおつのみこ)を産む。帰京後、天武天皇の即位前に亡くなり、667年に祖母にあたる斉明天皇の墓の前に葬られた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2010.12.10 15:33:17
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