★ 復刻記事 ベトナム#6 ゴメスの名はゴメス スパイの群れの中で カテゴリ:【ベトナム】ベトナム戦争時の思い出 2013.03.19 CSの日本映画専門チャンネルで気になる番組を見つけたので録画した 1967年に日本テレビ系列で放映されたテレビドラマ・全5話を ネットに載せたものである 原作は結城昌治 監督は高橋治(後に直木賞作家となる) 題名は 【ゴメスの名はゴメス】 ---- なぜ気になったかというと ・ 私自身が、昔、この原作の小説を読んだこと ・ 元々小説である原作の舞台が「ベトナム」であったこと ただし、このテレビドラマでは、舞台は「香港」に置き換えられている 当時、ベトナム戦争だったベトナムを舞台にしては撮影が不可能だったのが理由だろう 原作は、評論などで「ベトナムの湿った熱気が漂う」と評されていたので ベトナム戦争時、サイゴン(ホーチミン)に駐在していた私としては そこに、郷愁と興味を感じて一読したのだが 私のような実体験者からすれば、この作品から受ける印象として 「ベトナムの湿った熱気が漂う」 と言うほどの雰囲気・描写ではないと感じた記憶がある 原作者がベトナムに行った事が無く いわば想像で書いたものだから、やむを得ない点もあるとは思うのだが (当時は外国渡航は難しかったし、ましてやベトナムである) 同じように 戦争中のサイゴンを舞台にした映画 例えば 「グッド・モーニング・ベトナム」にも同じような 「どこか、ちがうんだよな~」 「あのベトナムじゃ無いんだよな~」 と言う違和感を感じた まあ、後者は,タイでロケしたらしいので 仏領の雰囲気の濃いサイゴンらしい雰囲気を出せないのも 当然と言えば当然 他のベトナム戦争を舞台にしたいろんな映画も 必ず見る事にしているが,同じようなものである では、どこがちがうのか?と言えば、はっきりその理由を言える 場所は、同じ東南アジアでは有っても いわゆる「仏領植民地」特有の 独特の、洒落て垢抜けした、どこかけだるく退廃的な、少し投げやりな雰囲気 そういうものが欠けているのである まあ、それにくわえて、東南アジアでは珍しい、実戦の雰囲気、も欠けている 私は、このブログで「ベトナム戦争の想い出」というジャンルを作って 20編ほどの記事を書いているが これは、単なるブログ記事として書いているのであるから 文芸的な情緒描写などはしていない しかし、あの、昔のサイゴン独特の饐えたような湿気の空気は、 ぜひ、エッセイなどで書いてみたいと思う ―――― ◇ ―――― この古いテレビ映画 もちろん、白黒画面であり、粒子も粗い この映画自体について少し感想を書いてみよう まあ、要するに、スパイの暗躍する魑魅魍魎の世界 (このテレビ映画では香港に置き換えられているが、 原作はサイゴンである) が舞台のサスペンス・ストーリーなのだが そのストーリーとは : イスラエルで地質調査の出張での2年間を過ごした坂本(仲代達也) 彼が帰国途上、香港在住の親友であり同僚の香取に会いに香港に立ち寄る しかし、空港に出迎えてくれた香取は,なぜか?その直後に姿を消す 彼を追って仲代達也は ギャングとおぼしき人物達、魑魅魍魎達の間を懸命に走り回る 原作は結城昌治による日本初のスパイ小説と、当時、高く評価されていた その陰影のある登場人物達がそれまでの日本の小説には無いものを持っていた と言う事が言われていた記憶がある しかし、私からすると、あまりリアルでは無い というのも 日本で想像によってこの小説を書いた原作者と違って 私自身は、実際にベトナム戦争当時のサイゴンに駐在し 複雑な軍事・政治・民族情勢に揺れる混迷と激動のサイゴンで生活していた 従って、私としては、とても、この小説をリアルだとは感じられない しかし、実際のベトナムを知らない当時の日本人にとっては これで充分だったのだろう くわえて この作品の主ポイントは 怪しげなスパイ風の人物達なのだが これも、私自身が、それとはしらずとも スパイに囲まれて生活していた と言う実体験がある 具体的に言うと、 事務所の現地従業員の半数がスパイだった と言う驚天動地の事実が、後で判明 おまけに、恋人まで後でわかったのだが、スパイだった(笑) という 驚天動地以上の(笑)経験をした私からすれば、 「現実は、こんな単純なもんや、おまへんで~」 というところだ(笑) そう言えば、東欧でも,スパイにつきまとわれた これも、本当 その内、スパイ特集でも書くか?(笑) 有名な英国系の作家達 イラン・フレミング、サマーセット・モーム、グレアム・グリーン、ジョン・ル・カレ達も 英国のMI6のスパイ(工作員)だったのだから 世にスパイは多いのだ(笑) 少ないのは日本だけ(笑) ただ、この小説は,スパイ小説・ミステリー小説だったのだろうが テレビ・ドラマの方は、冒険ハードボイルド調である しかも、仲代達也が、やたらに力んだ、正義感の主人公というやつ 別の言い方をすると、世の中がわかっていない単細胞(笑) まあ、地質学者では仕方ないか?(笑) ーーーー 昔、このブログでこういう一節を書いたことがある ---- 演劇・文学などのフィクションにおける「character論」においては、 ● 「flat character」 と 「round character」 と言うことが言われる。 フラットな人物像とは、いわば二次元・平面のような、 人間としての「特性」の少ないもの。 現実的には陳腐なステレオタイプの人間像を指すわけで、 近ごろの言い方をすれば「キャラが立っていない」状態を指す。 ● それに対してラウンドな人物像とは、 立ったキャラで、球形の、三次元の、 つまり奥行きのある人間像であり、 特性が多く、しかも矛盾したリアルな特性も含む人間像 フィクションではこのラウンドな人間像を創造できるかどうか? という所が key point になる。 ーーーー まあ、そういうことだ 非常に危険な状況であることが見て取れて, また周囲のほとんどすべての人間に 「危険で殺されるから、これ以上、本件に関わるな!」 と警告されるのに それを一顧だにしないという仲代達也の不可解な勇気(笑) まあ、安手なサスペンスによくある典型的な主人公だが(笑) 「あんたは、古代的な、英雄物語の主人公かい?」 と言いたくなるような、非現実的なほどに勇敢な人間像 高橋監督の演出、ちょっと単純すぎる やはり、私の好きな,松本清張の推理小説の主人公のように 平凡な一般人が、ふと、いつのまにか 事件に巻き込まれる方が、ずっと感情移住が出来るではないか? 主人公が、少しの事にも怖がる、弱気な男の方が、 ずっと、スリルがあるではないか? (つまり、私だが)(笑) ● 松本清張の「平凡な主人公」というのは 推理小説界の大発見だ(笑)と、本気で思う 状況でスリルを感じ、さらに、気の弱い主人公の内面に 感情移入してスリルを倍加させる そういうスリルバイ層の仕組みが、松本清張サスペンスにはある ーーーー このテレビドラマでは 同情的に見れば 悪漢どもの陰を際立てさせるために 主人公を単純な正義感で日本人離れした強気の行動型 にしたのだろうが それは、松本清張を知る私の視点からは(笑) 完全に失敗している こういう質の悪いハードボイルドには、どうも、なじめない 私は,陰のある人間が好きだな~ 陰を慕いて・・・(笑) いや、 「影を慕いて」だった(笑) ―― 日本映画専門チャンネルのHPより ―― ゴメスの名はゴメス(TVドラマ・全5話) 出演 仲代達矢/芥川比呂志/栗原小巻/岸田今日子 監督 原作 高橋治 結城昌治 脚本 公開年 星川清司 1967 上映時間 放送話数 42分 全5話 あらすじ 失踪した会社の同僚の行方を探すために香港に赴任した坂本(仲代)は、到着早々不可解な出来事が続き、ついに坂本を尾行していた男が「ゴメスの名は…」という言葉を残して殺された。同僚の安否は、そしてゴメスとは何者なのか…。香港やイスラエルの砂漠を舞台に、熾烈なスパイ戦を通じて“不安な現代”を浮彫りにした結城昌治の本格派スパイ小説をドラマ化したサスペンス。35ミリフィルムで撮影され、再編集版が「ゴメスの名はゴメス 流砂」のタイトルで同年に劇場公開された。 ――― ある読書会のブログから ――― 00年07月01日(火) ■[レポート]ベトナムの光彩~結城昌治「ゴメスの名はゴメス」を読んで~ 松浦綾夫 ベトナムの光彩 紀元前1世紀から中国に支配されたベトナムは安南と呼ばれ、19世紀にフランスの植民地となり、その後日本の支配下に置かれた。戦後、南北にひきさかれ、米ソ対立の主戦場と化し、そのあいだ枯葉剤の散布など、近代戦争の実験場となった。 つまり、生半可な国ではない。ずっと支配されどおしの国としてあった。 マルグリット・デュラスの「愛人」は、フランス植民地下時代のベトナムに住んだ少女(デュラス)が年上の富裕な青年に抱かれる話だった。 開高健の「輝ける闇」にもベトナム戦争の従軍作家を志望した「私」が現地の若い娼婦と濃密な性愛をくりかえす。 「ゴメスの名はゴメス」もまたたいそうエロティックな小説だ。 冒頭、日本からベトナムへ来たばかりの「わたし」が会社の同僚・香取をたずねて出てきたのは、二十歳くらいのリエンという女だった。香取の現地妻だったようだ。実は「わたし」は香取に気づかれないよう香取の妻と関係をもっていた。そして、黒い髪を長く伸ばし、黒い瞳が印象的な、どこか子どもっぽいリエンを最後には「わたし」も抱く。フランス人とベトナム人の混血であり、ダンサーであるヴェラ(娼婦であり、のちにスパイとわかる)とも「わたし」は官能的なデートをする…。 幾重にも、肉が重なる。しかも、実存がかかった交わりだ。 なぜベトナムはこうもエロティックなのだろう。 ベトナムという国の支配・被支配の歴史。隷属した人々の怒りやゆがんだ心性は「ゴメス」のなかでもあちこちで滲む。だが、全体の鍵をにぎる兵隊帰りで一度は死んだ記者・森恒が魅せられたように、ベトナムの明るい陽射しと熱帯植物の繁茂が、まがまがしいまでの健康さが、その暗鬱さを忘れさせてしまう。東洋人らしい黒髪に黒瞳の、南国的な色鮮やかなアオザイに、安南陶磁のような白い歯をのぞかせ人なつこい微笑みを浮かべる女たち。「紫、金、真紅、紺青、ありとあらゆる光彩が今日最後の力をふるって叫んでいた」(「夏の闇」)と開高健が描いたベトナムの夕陽。陽光あふれる土地に生きる、健康な肉体をもつ女たちとねじれ、軋み、傷んだ家=国のありかた――。 「ゴメスの名はゴメス」では、見えざる敵に追われるようになった「わたし」が、ベトナムの背後の、もっとおおきな「帝国」間の対立や策謀に巻きこまれてゆく。おってもおってもとかげの尻尾きりのように、敵の正なる姿は見えてこない。「わたし」は結城昌治のほかの作品の主人公のように、愚直なほどに、誰彼となく、話を聞きまわる。聴く。「暗い落日」から「軍旗はためく下に」までつらなる、聴く、という流儀だ。 「わたし」はこれから始まろうとする戦争、そして日本が植民地統治した時代の、もう終わった戦争、ふたつのねじれのなかで翻弄される部外者である日本人の立ち位置が描かれる。リエンは可憐だ。生い立ちからして不幸で、ただ養父のいうままに男に抱かれるしかない。その生をうけいれることしかできない。その肉体こそベトナムの姿とかさねられているのかもしれない。結城昌治の小説の<女たち>は運命的に悲運をおわされ、しかし気高く生きようとする女たちが多い。そういう女は小説のなかで美しく輝く。 これは日本のスパイ小説の嚆矢とされている。だが、そうした結構よりも、ベトナムで 「わたし」が出会う人々の、生まれた国や出自によって異なる信条、さらに人間が存在すること自体の不気味さ、個人が生きることの不在感のほうが強く印象に残る。 「軍旗はためく下に」でかなり早い時期に戦時の日本兵の加害者としての行為を、聞き書きというスタイルであらわした結城昌治の問題意識は「ゴメスの名はゴメス」にも揺曳している。日本の戦争、ベトナムの戦争、二つのパラレルな戦争のあいだで、一個の人間の生をこえてしまうおそろしいもの、暗い影が、どこまでもつきまとってくる。 呼びかけている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.09.28 20:03:47
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