★★ 復刻記事 ベトナム #5 ベトナム戦争 戒厳令の夜 2008.07.31 curfew 【カーフュー】と言う言葉がある 【curfew】 これはフランス語である しかし、国際的に通用する軍事用語である 語源はフランス語の covrefeu 英語では cover fire 暖炉などの火を消えないように灰を被せる・・・ いわゆる「熾火(おき火)」のことである ただ、熾火以外のもうひとつの意味がここでは重要である ○ 戦争などの緊急事態に出される夜間外出禁止令 ー a wartime curfew 【戦時下夜間禁止令】 ー military curfew 【軍事的夜間禁止令】 他に 【門限】【日暮れの鐘】などという意味もあるが、この際、重要ではない ~~~~~ 私の駐在時のサイゴンでは 【夜12時から朝の6時】まで、カーヒューが布かれていた 何しろ戦争のさなか おまけにベトコンの侵入が頻繁にあり プラスティック爆弾のテロも頻発 したがって 市内には検問をする軍隊・憲兵・警官などがあふれている 禁止令にそむいて深夜に外出していた場合 一応は「何者だ?」というような推何(すいか)はするはずだ しかし、そのまま射殺されてしまっても仕方がないのである 何しろ証人となるべき第三者は誰もそこにはいないのだし 戦時下の軍事的夜間外出禁止令なのだ 事実、射殺されるケースが多かったと思う 当時、日本人医師が二人、サイゴン病院に出向していて ある朝、私が病院を訪問した時に聞いた医師の話では 夜間のカーヒューの時間に自動小銃などで撃たれ 腹部に数十発もの銃弾を撃ち込まれた患者が 運び込まれたところだ、という だから 歓楽街で飲むのは楽しいが サイゴンの歓楽は【キッカリ12時まで】なのだ 【行きはよいよい 帰りはこわい】 まさにそう言う状況である そういう環境の中で私は、【節度ある】歓楽をこなしていたのである(笑) ~~~~~ このころの南ベトナムは単純な世界ではない 、複雑な世界である 二重構造の世界でもある 昼間の時間帯では南ベトナム政府軍と米軍がベトコンや北ベトナム軍を激しく攻撃している しかし夜間になるとベトコンがサイゴンの町に忍び込む まるで昼夜でクルッと逆転するオセロゲームの様なものだ それに加えて 日常は何食わぬ顔をして一般人として暮らしているが 実はベトコンに通じているスパイも多い いわゆる【スリーパー】である 眠っているふりをしている【諜報員】である 事実、ベトナム戦争が北ベトナムの勝利で終結したあと 人づてに聞いた話では 我が社のサイゴン事務所のローカル雇用の現地人 ベトナム人もいればか興味いたのだが その約半数が北側のスパイとしてカミングアウトしたという その顔ぶれを聞いて、私は驚いた 事務所の中でも最も有能で、資本主義的である(笑)印象の チーフ・クラークが、北の諜者だったという まさに驚きであった もっと個人的に驚きだったのは 私の・・・、私の彼女が北の要人として現れた、と言う あまり、この話は、したくない(笑) それだけではない 北ベトナム正規軍が全軍をあげて南ベトナム各地を攻撃、 サイゴンを包囲・突入した大軍事行動もあった 後にいわゆる「テト攻勢」と称されるものである 一気に南ベトナムの解放を狙ったのだ これは軍事的に時期尚早で失敗したが 南側に、米軍側に、大きなショックを与えた こういう軍事情勢だから サイゴン市内で夜間外出するものは 即、敵と見なされる これは仕方が無いところだっただろう curfew というのは戒厳令の一種なのだ まさに五木寛之の小説の題名ではないが 「戒厳令の夜」ということになる カーヒューの夜は、12時をすぎれば それこそ猫の子一匹通らない静寂である 針一本落としても響く静寂と言ってもいいかもしれない ときおり騒音を立てて、軍用トラックや装甲車や戦車が通るのみである ~~~~~ 当時の遊び友達の一人に日本料理レストランの経営者がいた 彼は毎晩のようにわれわれの宿舎に麻雀に来る たいていは強豪ぞろいの我が社の諸先輩にひねられて惨敗する その麻雀が終わったら、今度はナイトクラブに遊びに行く 私は麻雀はしないが、その後のナイトクラブ行きにはよくつきあった ~~~~~ 当時のサイゴンには高級ナイトクラブが数軒あった 中華街では ○ 華僑系の【アルカン・シェール】というナイトクラブがあった サイゴンでは ○【トゥー・ディ・ヴォワー】、フランス語でいう【象牙の塔】である 英語で言えば【アイヴォリー・タワー】 と言っても、もちろんそのナイトクラブでホステスが一生懸命勉強しているわけではないが ○それに【ヴァンカン】という店もあった この【ヴァンカン】の特色としてフランス系混血美女が多かった グラマーな肉体派の混血美人が好きな人はここに来る 私の先輩の「グエン・カオ・キさん」も、ここが好きだった ~~~~~ 「グエン・カオ・キさん」というのは通称である 本人は繊維担当の駐在員なのだが、その容貌からみんなにそう呼ばれていた グエン・カオ・キとは、当時の南ベトナムの副大統領である ジェットパイロットでもあるカオ・キ氏は 大統領のグエン・バン・チュウ以上の有名人である この繊維担当駐在員が「グエン・カオ・キ」にそっくりなのである ふたりとも、やや細身で、顔が小さくて、チョビ髭を生やしている ふたりとも、女性から見て魅力的かどうかはさておいて、おしゃれではある 和製カオ・キさんも、私同様、麻雀はしない だから・・・というわけではないが、夜のサイゴンが好きである 紅灯の巷が好きである 毎日、飲みに行くのが好きである 好きであると言うより、毎晩出かける 私も麻雀はしないし、紅灯の巷が好きだから 私たちはよくつるんでサイゴンの街に出かけた おしゃれな和製グエン・カオ・キさんは人当たりも柔らかく 多分、船場の【いいしのボンボン】なのだろう 予科練上がりだと噂のある胆力のある店長とはお互いに肌が合わない それにカオ・キさんは愛人がいない 私も愛人がいない これも毎日、飲みに行く理由の一つである カオ・キさんも日本人としては珍しく 私と同じで、華僑の女性があまりすきではない だから、中華街ではなく、サイゴンのナイトクラブに飲みに行くのである 社内的には、夜の外出先として、サイゴンの米兵が群がるバーは、一応、禁止になっていた ナイトクラブを二軒ほどハシゴをして、おとなしく帰る 私のように、荒くれの米兵がたむろする危険なバーには行かない このカオ・キさんには、先輩から聞いた面白いエピソードがある ボンボンのカオ・キさんは、フランス系のスポーツクラブに入っていて、そこでテニスをする ある日、カオ・キさんがコートに立っていると、なんと本物の副大統領のグエン・カオ・キがあらわれて、和製カオ・キさんのとなりのコートに立ったというのだ 私たちはこの二人がそっくりだと社内で話していただけだったのだが、やはり【だれがみても】二人はそっくりだったらしい コートの周りの見物人から、しばらくたって忍び笑いが広がったというのである 後で、和製カオ・キさんにこの事実を【確認】してみたら、カオ・キさんはだまったまま、「フフフ・・・」と笑った ~~~~~ ナイトクラブの話が続く ナイトクラブの最大手はなんといっても、カティナ通りにあった【マキシム】である サイゴンの目抜き通り、東京なら銀座通りにあたる【カティナ通り】 これはフランス植民地時代のフランス風呼び名である(しゃれてるよね~) この南ベトナム時代には、ベトナム語で「トゥー・ドォー」、つまり【自由】という名称で呼ばれていた通りだ もっと正確に言うと「ツゥー・ドゥオー」とうのは南ベトナム訛りの発音である 標準語であるハノイのベトナム語でなら、「トゥー・ゾォー」と発音しなければいけない (一応うんちくを披露しておこう) なお、このカティナ通りは、現在の共産政権の下では改名され【ドンコイ通り】となっている このマキシムはサイゴンのナンバーワンの店である 正統派で格式高い ショーも豪華で本格的である それほど面白くもない、ベトナム版ミニ・ミュージカルのような演芸がある 昔の松竹SKD または祇園の芸者ショーみたいな感じだと思っていればいい それに有名歌手の歌がつづく 真っ暗な中にアオザイを着たベトナム美人のホステスが暗闇に一杯ひかえている 私達がテーブルにつくと先ずママさん(中国風にタイパンと呼ぶ)が応対してくれて指名のホステスを呼んでくれる ホステスは大抵番号で呼ばれていて、例えば「15番」という風に番号で指名する 味気ないようだが、そのうちにその番号になれる 当時のベトナムでは、ナイトクラブでも、米兵バーでも、裏はともかく、割にお行儀のよい世界だった らんちき騒ぎはない ホステスが隣に座ってお話をするか、ダンスをするかぐらいである もちろん、ねんごろになれば別ではある ステージではヴィエトナム流行歌の歌手が、南部独特の哀切な叙情的な曲を歌う 北のハノイの人たちは堅苦しくてきまじめで勤勉な人間・・・といわれている 南ベトナムの、サイゴンの人たちは違っている 明るくて、お茶目で、きわめていい加減で、こちらにもし隙があればだまそうとする(失礼) (言い過ぎた) _| ̄|○ それが、歌となると、とたんに悲しげに身をよじって、身も世もないと言う風情ですすり泣く様に唄う 思い通りにならない、はかない悲恋を切々と歌い上げるのだ 南の人たちは良くも悪くも感情的だから、日頃は明るくふるまっていても、じつはこの世の哀しさや恋の切なさを強く感じているのだろうか この辺の矛盾というか、亀裂というか、不条理というか、そういうものが私にはいまだによく解明できないままである 私はこのベトナムの歌が大好きである 私はヴィエトナムの歌・気候・女性・いろんな人々・料理・・・すべてが好きである ~~~~~ そんなこんなで、そろそろ11時も過ぎて、いよいよ恐怖のシンデレラ・タイムとなる 12時からは恐怖のカーヒュとなるのだ 普通ならそこで慌てて帰るのが正常な人間のすることなのだが・・・ このレストラン経営者はやっかいな性格の人である こういう危険な状況でも、最後の最後まで粘るのだ ホステスや従業員たちが帰ってもまだ飲みたがる 結局12時まであと十数分という時になって、やっと車に乗る 「おいっ!あと10分しかないよ!頼むよ!」 彼もさすがに必死になって(遅い!)夜のサイゴンの街を爆走する 手に汗を握る境地だ 私の宿舎に着くのが、すでに12時だったりする そこから彼はさらに自宅へ戻らなければいけないのだ キキ~~!! とタイヤをきしませながら彼の車が消え去る 機関銃の引き金に指をかけた兵隊に出会わなければいいのだが ~~~~~ 後年、私はインドネシアのジャカルタで彼と再会した サイゴンの店はたたんで、ジャカルタで商売をしている 毎晩あんな事を繰り返しても、何とか射殺されずに生き延びていたらしい しかし、悪い癖は直っていなかった ジャカルタでもまた、ルーレットなどで真夜中までつきあわされてしまった
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最終更新日
2018.10.01 17:58:11
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