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カテゴリ:人生訓
これまでの60年の人生、結構中途半端でムダな?事ばかりしてきましたが、しかしそのムダも、60歳の今となって考えると、役に立っているのか?と思う今日この頃です・・・(笑)。
社会人になってから3回転職、宅建&不動産コンサル&FPなど9つも資格だけ持っているが商売に活かせず、空手を35年ぶりに再開するも流派は3つ目、ウインドサーフィンは39年間もダラダラと、なんちゃって?ドラムを40年ぶりに再開、テキトーなオーディオ歴も50年、だんじり大太鼓は今でも毎年ダラダラ55年も、文法を無視したブロークンでテキトーな英語でも何故か現地で通じる・・・(笑)。 私が子供だった昭和30年代は日本は戦後の復興期真っ只中の高度成長期で、どこの家庭の親も働くのに忙しく、また子供も多かったので放任のところも多かったように思います。 せいぜいPTAがあるくらいで、今のような育成会とかはありませんでした。 子供は外で同級生だけでなく年上や年下らと勝手に遊んでいました・・・ 今ならチョッと問題になるような悪い事でも、当時はみんな普通にヤッテいましたねェ・・・ そういう大らかな時代でした。 例えば、だんじり祭なんかは小学生の頃から朝から晩までだんじりに貼りついて、スキを見てだんじりに乗り込み、太鼓や鉦を手当たり次第叩いていました・・・(笑)。 たまに綱を引っ張る事もありましたが、これがまたPTAからクレームが出そうな事を当時堂々とやっていました。 青年団のニイチャンらと一緒に春歌を歌うのです。 高校生くらいなると、チョッと酒を回し飲みしたり・・・ たぶん、何処の村祭りもそういう雰囲気でした。 今なら警察が出てきそうです・・・(笑)。 今から思えば、顔から火が出ますねェ・・・ 自分の頃もそうだったし、そんな事を知っていた親父は、私が祭りに参加するのを「行くな・・・」と反対しました。 しかし、その反対も自分も若い頃に行っていただけに、弱かったですねェ・・・(笑)。 まァ、そんな太鼓好きが高じて、青年団の最後まで「鳴物(お囃子)」をヤッテいました。 この鳴物というのは、大太鼓と小太鼓と鉦と横笛のセッションです。 呼吸がピッタリ合わないと、いい演奏がデキなのです。 この鳴物の経験で、楽器演奏で最も大事な「ノリ」を体得出来たように思います・・・ 小学生から早くも「ノリ」を覚えたというのは、その後バンド活動にプラスになったのは言う間でもありません。 その後、中学1年で洋楽に目覚めました。 特にブラスロックのシカゴに心酔し、高校でトランペットをする事になりました。 当時どうしてもトランペットをしたかった為、仕方なくクラシック音楽中心のオーケストラ部に入ったのでした。 部活でクラシック、家でロックをガンガン聴いていましたので、当時親父は「とうとう、トオルも気が狂ったか・・・?」と本当に思ったそうです・・・(笑)。 しかし、小学校低学年からの民族音楽(だんじり和太鼓)や、高校時代のクラシックからロックまで幅広く聴いていたという中途半端で一見無駄のような音楽遍歴が、その後ジャズからラテン、フュージョン、R&B、ソウル・・・と広がっていったベースになったのかと思うのです。 それが、色んなジャンルのミュージシャンが来られるリハスタ経営にプラスになっているのかと思うのです。 そしてトランペットにしても結局、花形の旋律を吹くファースト・トランぺッターになれず、いつもハモリ専門のサード・トランぺッターに甘んじていましたし、大学時代バンドでドラムをやっていましたが、我流で1年半で挫折してしまいました・・・(涙)。 自分なりに一生懸命しましたが、結果的に中途半端に終わってしまったのです。 一流プレーヤーになれなかった事が、逆に音楽を趣味として楽しむ事と他の分野(経営サイド)に目を向けさせたのかもしれません。 大学受験も失敗しました・・・(涙)。 現役時代は工学部建築学科を目指していましたが、結局浪人して私立文系に進学しました。 最初から私立文系受験のみを考えれば、無駄な数学や物理や化学を勉強する必要もなかったのですが、中途半端にイロイロ勉強して2年も回り道をしてしまいました・・・(笑)。 お蔭さまで、孤独に強くなりました・・・(笑)。 2年もの浪人時代は「孤独との戦い」でした・・・(涙)。 勉強しなければならないのに、全くヤル気が出ない・・・この繰り返しで、悶々とした日々が続きました。 同級生らが青春を謳歌しているのに、なんで俺がこんな状況に・・・ 心理的に、この時期が最も苦しかったかもしれません。 しかし後で考えれば、2年も浪人が許されるなんて、経済的に恵まれていたからです。 家が貧乏であれば、高校すら進学出来ないのです。 親父に2年も迷惑を掛けた事を心から反省し、大学入学直後からサラリーマン2年間を通じて毎朝5時から家業の織物業を手伝ったのでした。 そういう意味で「経営者は孤独」・・・というベースも浪人時代に養ったのか。 大学に入ってから空手を始めましたが、これも自分なりに一生懸命練習しましたが、自分の限界を早い段階で知ることになりました・・・(涙)。 おまけに父親の入院で、学業を中断して空手部も辞めざるを得なくなり、その後落ち着いてから流派を変えて地元で空手を再開したのです。 それも3,4年で辞めて、数年前に30年ぶりに今の沖縄空手を始めたのでした。 過去40年で3つも流派が変わったのです。 空手は流派を変えると会社人生と同じで「一から白帯スタート」ですから、無駄と言えば無駄だったかもしれません・・・ ただ3つそれぞれにイイ所があり、「違う3つの事を学べた・・・」とトータルで空手人生を考えれば、納得です。 また大学時代、空手とオーバーラップしてウインドサーフィンも始めました。 どちらかと言うと、ウインドサーフィンに比重がいつの間にか移ってしまい、地元泉南樽井ビーチで始めたのが、大学にも学連加盟のクラブを自ら創ってしまいました。 これも、一生懸命頑張りましたが、「上には上がいる」という事を身に沁みました。 就職試験もヤマハ発動機やミズノといったウインドサーフィンに当時これから新規参入しようという企業を受けましたが、すべて撃沈・・・ 「ウインドサーフィンをいつ発売しますか?」とか「米ウインドサーファー社のユニバーサルジョイントの特許をどう思われますか?」と他の受験生がビックリするような内部的にマズイ質問をした事が面接官の気に障ったのか・・・(笑)。 まァ、全日本選手権で入賞するくらいでないと合格できなかったのですが。 最高の戦績で全日本96位ですから・・・こりゃダメだと。 死ぬほど頑張っても目が出なかったら、めげますねェ・・・(涙)。 第一志望叶わず、第五志望くらいの建築建材メーカーに就職しましたが、そこで本業の営業の傍らウインドのパーツに参入しようとしましたが、これも特許の壁に阻まれ断念せざるを得なくなりました。 右肩上がりのニュービジネスの業界の裏側を見れた事が、その後のビジネスマンとしての経験に非常に役立ちました・・・ 「美味しい・・・」と見れば、この全く新しいマーケットに原材料メーカー(合繊、カーボン、アルミ、樹脂)、有名スポーツメーカー、アウトドアメーカー、海外メーカー、輸入専門商社、総合商社、小売り、有名一流選手、強豪大学クラブ、個人の熱狂的な愛好者らがこぞって新規参入・・・それに群がる膨大な中小の海千山千の業者・・・ 正に驚き以外、何ものでもありませんでした。 その4年後に家業に戻ってから、地元二色浜人工島にウインドの「艇庫」に参入しようと画策しましたが、これも途中で大手リゾート会社が参入するという事で断念。 正に、四面楚歌だったのです。 結局、断念して織物業に専念することになりました。 その後まもなく、ウインドサーフィンブームが去ってしまい、軒並みこれまでの業者が撤退、倒産、廃業というエライ事になりました・・・ 業界がひっくり返るというのは、正にこの事を言うのでしょうねェ・・・ 「やらなくてよかった」・・・と、ホッと胸を撫で下ろしました・・・(笑)。 途中で断念できたのも、本業の片手間でやっていたからです。 背水の陣で100%それに注力していたら、引くに引けない状況に陥って失敗していたでしょう。 ちょうど、空手の「猫足立ち」みたいなもので、軸足に80~90%体重を掛け、蹴り足で探るみたいな感じで・・・ やはり、母体(本業)を守りながら、新規で攻めるなら10~20%に留めておけというスタイルがイイのか・・・? また、逆に一流大学に行けなかった事で、一流(大)企業に行けなかったのが幸いしました。 自虐的ですが・・・(笑)。 日本の学歴社会が、私にとって功を奏したのです・・・(笑)。 頭で勝負できなければ、行動力で勝負と開き直ったのです・・・ 人材不足の二流企業で、色んな事(営業、企画)を経験させてもらった事が、その後家業の織物業でプラスに働きました。 4年のサラリーマン生活で「飛び込みセールス」を中心とした営業を経験をした事が、その後家業に戻ってバブル崩壊後の「得意先を代える(100%賃織りからの脱却)」という難局を乗り切る事が出来たのです。 いや、二流企業のサラリーマン経験が無ければ、織物業20年を乗り切れなかったでしょう。 織物機械(織機)の更新では、工場を改造でよかったのを新築までした事で、トランクルームへの用途変更(転業)を可能にしました。 織物工場を改造するだけでしたら、トランクルームに転業できなかったでしょう。 何がプラスに働くか、その時点で分るはずもありません・・・ いずれにしても、この工場新築だけが中途半端ではありませんでした。 これだけは、思い切ってヤッテよかったのです。 もし一流大に行って一流企業に就職しても、出世競争に巻き込まれ、長いサラリーマン生活の中で会社都合であちこち国内外をポンポンと転勤で飛ばされます。 サラリーマンだから仕方がないでは済まされないと思います。 家庭を犠牲にしてまで会社に尽くすという意味が外国人には理解できませんが、普通に考えれば日本のサラリーマン事情は異常だと思います・・・ 相当優秀な人だけ役員になって60歳以降も年収は下がりませんが、殆ど場合は55歳の役職定年で年収が減り始め60歳定年で更に年収がた減りです。 そして、1年契約の継続雇用などで65歳まで働けても、65歳で年収ゼロというのが一般的なサラリーマン人生のシナリオです。 まァ60歳まで本体に居れたらまだラッキーな方で、多くの場合は50歳までにどこかに消えてしまいます(出向、転籍、リストラ解雇)・・・ というか、人材豊富な大手企業はホンネを言えば基本的に50歳以上の高給な社員は要らないのです。 奇跡的に社長になれても、社長在任中に何らかの手を打つかオーナーでない限り殆ど70歳でサラリーマン人生終了です。 自営業者やオーナー経営者が「70歳でも現役バリバリ」というのと大違いです。 男の人生として、この「60歳から70歳まで」の過ごし方(仕事&プライベート)が最大の課題かもしれません・・・ また、織物工場の防振と防音が20代前半に一時期凝った「オーディオ小僧」時代の経験が役立ちました。 AKAIのオープンデッキ、ビクターのカセットデッキ、ケンウッドのスピーカー、テクニクスのチューナーとプリメインアンプ、サンスイのレコードプレーヤー、TDKのカセットテープ(AD,SD、SA)・・・ 凝ったと言っても、せいぜいトータル50万円程度で、マニアなら100万円くらいは当たり前でした。 しかし、よく日本橋をウロウロしました。 毎晩23時から始まる「クロスオーバーイレブン」をオープンデッキでエアチェックし(週替わりでFMレコパルと週間FMを買い)、それをセレクトしてカセットにダビングするのです。 雑音低減システム(ドルビー:ビクターはANRS)を掛けるのは家用、掛けないのは車用と、同じ曲でも2つもカセットを作った凝りようです・・・(笑)。 当時360CCの軽トラックにもカセットデッキを積んで、ガンガンロックを聴いていたのは私くらいのものでしょう・・・(笑)。 今よりひと回りも車体が小さかったのでスピーカーをドアマウントではなく、天井と下のヒーター吹き出し口付近に無理やり取り付けました・・・(笑)。 まァレコードは高価だったので、こうすれば沢山の曲を安く聴けるという発想だったのです。 何より、コスパ・・・です。 本当に凝ったのは、たったの3,4年ですが、その後30年間音楽CD、パソコンによるCD-Rコピーとずっと音楽を聴き続けてきました。 これも、中途半端に凝ってヨカッタのです。 レコードの針でも高価なもので10万円もしましたから、本当に凝っていればタイヘンな事になってしまいます。 当時親父はクラウンでモノラルの8トラ(カセットの前世代)で演歌を聴いていましたが、ちょうどパイオニアが日本初のカーオーディオ(ステレオカセット)を発売し始めた頃でした。 本格的なオーディオマニアでも、狭い自宅でボリュームを10分の1以下で聴いているのが現状でした。 どちらも全くパフォーマンスを活かせていない事に、非常に勿体いなさとアンバランスさを強く感じたものです。 この時の経験で何事も「コスパ」というのを更に意識したのでした・・・ まァ単なるオーディオの経験で、防音&防振、コスパ意識、音楽性の拡大といった事を体得し、それが織物業の24時間操業、経営感覚、スタジオ経営の礎となったと言えるかもしれません。 余談ですが、日本橋の裏通りも知っていた為、織機の細かい電子部品調達で随分と得をしました。 何も知らなければメーカーにコンプリートで注文しなければなりませんが、知っていれば100分の1以下の値段で修理できます(買えます)。 違法でも何でもありませんが、知っているか否かの差だけです。 たぶん、こんな事が出来たのも日本で私ひとりだけだと思います・・・ という事は、8ビットコンピューターが搭載された1987年以降のエアージェット織機を扱った工員さんで、1970年代に大阪の日本橋や東京の秋葉原をウロウロしていたのは、日本で私ひとりだったのです・・・(笑)。 ニッチ過ぎますねェ・・・(笑)。 まァ、同じモノだけど、業界が変わればその価値が100分の1になる。 という事は、100倍にもなる。 大事なのは、モノを見る視点を柔軟に変えるという事でしょうねェ・・・ ある時は斜めから、同じ斜めでも東西南北イロンナ角度からモノが見えます。 すると、考えてモノゴトを分析したくなります・・・ 「ナルホド、こういう事やったんか?」と。 いつも同じ方向ばかりから見ると、モノの考え方が固まってしまい人生の選択肢が狭まります。 また、去年から40年ぶりにドラムを再開しましたが、これも当時自宅納屋で我流でドコドコ一生懸命練習していましたが、1年半で挫折してしまったのです。 「俺は何をヤッテもアカンなァ・・・」と自信喪失していたのですが、頭の中に「いずれ遊びで再開でもしたいなァ・・・」とボヤッと考えていたのが、スタジオ経営に結びついたのです。 これが、本腰を入れてそこそこのミュージシャンになっていれば、損益分岐点を考えずに高価な楽器機材に拘ってしまい、リハスタ経営は難しかったでしょう・・・ 適当なドラマーで終わりましたから、楽器の経験も知識も余りありませんでしたので、当たり前ですが経営をポイントに置いたのが逆にヨカッタのでしょう・・・(笑)。 大阪のウインドサーフィンショップで、プロやセミプロに近い技術を持ったウインドサーファーが経営していたショップは殆ど潰れてしまいましたが、未だに30年以上経営している某ショップ経営者はウインドサーフィンの素人です。 この辺が、商売の難しいところです・・・ また、ヒップホップダンスも少しカジッていました・・・(笑)。 元々我々の世代はサタデーナイトフィーバー世代で、若い頃はミナミのディスコに時々通っていたものです・・・ その「影響」で20年くらい前に、前ジャスコ貝塚店のスポーツクラブ「スペース」でヒップホップのスタジオプログラムを2年受けました。 自分のセンスの無さに気落ちしながらも、楽しかったので週1回必ず受けていたのです。 その後、コナミスポーツ、ジョイフィットとジムに通いましたが、ボディコンバットを中心にヒップホップも受講した事が、リハスタ経営で「広くしてダンスもOKにしよう」という発想が浮かんだのだろうと思います。 ダンスに関わった事が無かったら、こういう発想も出来なかったでしょう・・・ 中学体育授業でダンスが必須化された事が、これからの追い風になるでしょう。 という事で、60年の人生を振り返ると、この工場新築が人生最大のターニングポイントだったと思います。 残念ながら人に自慢するほど「何かに一流だった」という立派な人生を歩んできませんでしたが、凡人が試行錯誤をしながらイロイロ中途半端な経験を積んできても(実績は残せませんでしたが)、それなりにオモロイ人生だったと人に言えるかもしれません・・・ 一流選手だった人が年取ってから結構身体があちこちガタガタというのは、1つのスポーツだけを突き詰めてヤルと、バランスを欠いた状態で同じ筋肉ばかりを酷使するので、それが身体にとって良くないのだろうと思うのです・・・ 一般人なら、適当に複数のスポーツをバランスよくイロイロやる事が身体に良く、それが応用力に繋がっていくのかと思うのです。 点と点が、30年経ってやっと線になった・・・とスティーブジョブスが同じような意味の事を言いましたが、超一流を目指す人間は別にして、一般人が社会生活をする上で、それなりにイロイロ経験を積み重ねる事が大事だと思います。 ただ、「点」と言っても3日坊主では全く意味は無く(むしろ逆効果で自信喪失に繋がる)、少なくとも自分の限界点が見えてくるまで1年くらい努力をする必要があるでしょうねェ・・・ これからも全く新しい事は出来ませんが、自分の過去の経験を紐解いて「新しい組合せ」ならデキるかもしれません・・・ よくビルボードライブへ往年のミュージシャン(外タレ)を見に行きますが、彼らは60代70代ですが、未だに現役バリバリです。 何故か? 若い頃に培った「基本」がしっかりしているので、年とってもブレナイ(今でも上手)のだと思うのです。 もちろん、20代の頃のようにはいきませんが、マーケットに充分受け入れられる実力は未だ充分備わっているのだと思います。 それと同じように、未だに空手やウインドやドラムを「それなりに」ヤレたり、英語を多少喋れてるというのは、若い頃に応用を効かすまでには至りませんでしたが(一流になれず)、基本をまだシッカリやっていたからだと思いますし、もうかれこれ30年続けている早朝の「15分ストレッチ」が今頃ジワジワ効いているのかかな?・・・ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 大阪府 ブログランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017.07.16 05:13:44
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