カテゴリ:🔴 C 【文化・歴史・宗教】
今日も復刻版「カサブランカ」の裏話 PART TWO.
---------------- 今日は昨日の続き、映画「カサブランカ」のモデル、カレルギー伯の逃避行の全貌 (3) 02月08日(日) ---------------- 今日は昨日の続き、映画「カサブランカ」でバーグマンの夫の役柄のモデルだった、青山栄次郎の逃避行について「エリザベート ハプスブルク家の最後の皇女」という本を拾い読みしながら、私なりに説明をしながら書いて行く、・・・つもり・・・だ。 ―――― ◇ ―――― 「エリザベート ハプスブルク家の最後の皇女」 第二十四章 トイツ軍ウィーン占領 1938年3月13日、オーストリアはドイツに完全併合されてしまった。 同じドイツ語圏とはいえ、オーストリアとドイツはちがう。 オーストリアは近代欧州の最高の名家・ハプスブルグ家の本拠地であり、オーストリア・ハンガリア帝国を形成して欧州全体の覇権を握っていたのだ。 ドイツという国はイタリアと同じように、いろんな独立国が併合されて最後にドイツという国になったわけだが・・・。 ヒトラーは14日リンツからウィーンに到着、ヒステリックに熱狂しきった60万の群衆は歓呼・歓喜して、隣国から凱旋したヒトラーを迎えたという。 ぬれねずみの様に不遇だった故郷・オーストリアに凱旋したヒトラーは、そのオーストリアの輝かしい盟主・ハプスブルク王朝の王宮バルコニーに立って歴史的な大演説をした。 ナチスのすべての高官が参列し、まるでオーストリアを押しつぶすような勢いがあったようで、ウィーンの家々にはドイツ空軍機が運んだどいうナチスの旗、ハーケンクロイツがたなびいたという。 欧州の列強がヒトラーに臆病風を吹かしていた中で、ナチスに反旗をひるがえしたのはパリにいた若いオットー・ハプスブルクがいて、それにハプスブルク家は歴代ユダヤ人保護に力を尽くしていた。 ヒトラーは欧州の名門ハプスブルク家の復活を極度に恐れていて、ハプスブルク家への弾圧を強めていた。 そんな状況の中で、完全併合への最後通告を受けたオーストリア側には、いち早く逃亡脱出する人も多かったが、皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリザベートの孫娘のエリザベートは断固として脱出を拒否していた。 パン・ヨーロッパ運動のリーダー、栄次郎(もうクーデンホフ・カレルギー伯爵と呼ぼう)は、あるナチス党員から秘密裡にヒトラーの完全併合へシナリオとオーストリアへの最後通牒を突きつけるとのニュースをもらい、さらに別の友人から電話で「首相が辞任したこと、ドイツ軍のウィーン進駐が近いこと」を知らされる。 それまでにカレルギーは1932年10月にはパン・ヨーロッパ会議で政権を取る以前のヒトラーやスターリンを非難している。 さらにチャーチルの援助も得て、欧州中をかけまわって反ヒトラーおよびパン・ヨーロッパ運動を拡大している。 ヒトラーがウィーンに進駐してくれば、彼が真っ先に標的にされるのは間違いない。 併合直前の日に、開いていたパーティーを急きょお終いにして、彼は妻のイダとともにスイス大使夫妻が貸してくれた自動車に最小限の荷物を積み込み、ナチスのデモ隊であふれる街からの脱出を試みた。 そのデモ隊に囲まれて危機一髪のシーンもあったのだが、自動車がスイスの外交官ナンバーであったことから紙一重で危機を逃れ、隣国のチェコスロバキアのブラティスラヴァに逃れた。 翌日、ハンガリーの首都ブダペストに向けて夜中だけを選んで全速力で走る。 昼間は森の中に潜む毎日だ。 ユーゴスラヴィアからイタリアに入ると、連絡を受けていた反ナチスのイタリアの高級将校が出迎え、スイスまで護衛付きで送ってくれた。 スイスではナチスの宣伝相ゲッペルスがクーデンホフ・カレルギーを逮捕し公開裁判に付すと宣言した新聞記事を読む。 ここで彼はしばらくスイスを本拠地にしながら欧州各地を奔走し、なおも反ヒトラー運動をすすめ、特にパリには滞在することが多くなる。 しかしそのうちにパリもが、ドイツ軍に占領される事態になり、米国への亡命を決意する。 この辺がボガートがバーグマンと逢瀬をかさねる時期ということなのだろう。 現実のカレルギーはスペイン経由ポルトガルに入り、米国ビザを取得しようとするのだが、なんとリスボンの米国大使館にビザの発給を拒否される。 当時の米国大統領ルーズベルトはソ連との友好関係のため、さらに米国自身のためにもパン・ヨーロッパ運動は好ましくないとしていたのだ。 これに対して英国の首相チャーチルは、戦後の欧州の平和構想の中心にとまで、このパン・ヨーロッパ運動を買っていて、カレルギーを支援していた。 こんなところに、英米のスタンスのちがいがあったのか? 現在のドル安はユーロ通貨の強さが一因と言うから、あながちルーズベルトを責めるわけにもゆかないかな? リスボンで渡米工作の日々を送っているうちに、北アフリカのマグレブの地のモロッコはカサブランカに行けば、闇(やみ)のパスポートとビザが入手できると聞いて、まさに出かけようとした時、1940年(昭和15年)夏、あるアメリカの大学から教授として招聘したいという電報が届いて、それでカレルギーは無事に米国に渡った。 このへんが映画とのちがいで、映画ではこの大学の招聘が無いばかりに、カレルギー夫妻はわざわざモロッコくんだりまでの逃避行となるわけで、大学よ、しっかりしてくれ! これはちがうか? しかしこれで終わりではない!! ―――― ◇ ―――― これで「終わり」だとすると、「映画カサブランカ」が、この夫妻をモデルにして、モロッコを舞台にして、企画されたという発端は、どこにあるのだ?!?!と、みなさん思うだろう。 もっともこの映画は、本当のところはやっつけ仕事で、脚本も・・・おそれ多いが、かの井上ひさし先生のように、遅れてその場かぎりで・・・、俳優もスタッフも、明日はどうなるのか?わからなかったらしい。 それなのにそれなのに、映画史上に残る永遠の?名作になるとは人生万事塞翁が馬・・・、ちがうか? それに・・・みなさん、というほどROMは多くないが、まあ、いい。 ―――― ◇ ―――― ニューヨークに到着したリヒャルト・イダ夫妻は、あるひたまたまラジオを聴いていた。 おどろいたことに、そのラジオ放送でニューヨーク・タイムズの記者が「カレルギーは死んでいても不思議はない!」とコメントしたらしい。 まあ、ワイドショーではあるまいし、夫妻の決死の逃避行を随行取材したわけではないのだから、わからなくて当然だよね~。 ―――― ◇ ―――― 余談だが・・・。 この「余談だが・・・」と言う言い方、司馬遼太郎さんが乱用したよね、いや濫用。 なつかしいし、・・・「いいな~~と思う」。 ―――― ◇ ―――― 余談だが・・・、この 「きしゃ」ということばを打ち込むと 記者 貴社 汽車 帰社 喜捨 喜捨 騎射 ・・・とワープロソフトの変換能力を試すがごとき有様になるのは、「みなさん!」、(ROMは少ないって!!)、ご存じのはず。 ―――― ◇ ―――― だから~、ニューヨーク・タイムズの~、ちょっと酔いが回っているのだが、酔眼・・・。 この誤報というか、悲観的な推測情報におどろいた夫妻は、すぐNYタイムズに電話をかけて、その本人がまさにここにいることを告げる! もうたいへん! 全米がわきかえり・・・夫婦の決死の逃避行はいちやく、最大の話題になり、パン・ヨーロッパ、汎欧州運動はハリウッドにも映画のネタにされてしまったという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[🔴 C 【文化・歴史・宗教】] カテゴリの最新記事
|
|