カテゴリ:🔴 C 【文化・歴史・宗教】
いくらきれい事を言っても、人類の闘争・戦争の歴史は、常に人類の存在と共にあったもの。
現世人類は、戦争という闘争のフィルターをくぐって生きてきた人類だ・・・とも言える。 同時に、原始時代の狩猟も、見方を変えれば、人間による動物へのコンスタントな虐殺の歴史であり、世界平和を祈る人々も、動物愛護や捕鯨禁止を声高に唱える人々も、その先祖をたどれば、この殺戮による獣肉をむさぼって生き延びてきたという暗い過去?がある。 狩猟は、闘争・戦争へのシミュレーション・予行演習の側面もあり、闘争・攻撃本能無しには出来ない作業だ。 私から言わせれば、静謐な高尚な趣味として見られている釣りだって、狩猟の一部だと思う。 これらの闘争本能が脳内にあるからこそ、現世人類は、動物や、すでに絶滅した他の人類、つまり『猿人』『原人』『旧人』などとの生存競争を生き抜いてきたのだ。 ---------------- 人類の脳は、何度かの過程を経て重層構造になっている。 言い換えれば、人類は爬虫類・原始哺乳類などの過程を経て霊長類になったのだけれど、脳もその進化?の過程通り、爬虫類の脳・原始哺乳類の脳、それに霊長類となって形成された新しい脳が重なっている。 この古い脳・新しい脳はその機能がちがっている。 言い換えれば、各々に限界があるということだが。 例えば、爬虫類の脳は、攻撃的で、単純な繰り返しの行動しか指令できない。 ---------------- 新しい脳は、古い脳の機能を補完するという。 霊長類の脳は、爬虫類の脳の攻撃性を制御しようとするが、この新しい脳はまだこの攻撃性を充分制御するまでに発達しておらず、制御が可能になるまでには一万年以上の年月が必要だという。 とすれば、私たちはまだ一万年ほどは、闘争と殺戮の世界を生き抜かなければならないんだろうか? それとも、例えばDNA操作などの手段を通じて、人類の闘争本能のコントロールに手を付けなければいけないのだろうか? これは極めて危険な手段で、すでに神の領域だとも思えるが、一万年との引き換えに、私たちはこのこの危険なステップに踏み出さなければならないのだろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[🔴 C 【文化・歴史・宗教】] カテゴリの最新記事
|
|