カテゴリ:🔴 C 【文化・歴史・宗教】
今この日記を読み返してみると、大変、極論を書いている。
それにとても傲慢な書き方をしている。 今の私は大いに謙虚な人間になっているから、許して欲しい。 また、私のリンク友達は、ここで例に挙げた日本人とはちがって、論理的な話し合いが出来る人たちばかりだと言うことは、前もって断っておこう。 うまく予防線を張った所で、復刻してみよう。 ---------------- 【復刻日記】 隣国と国境を分かったことのない日本は、論理的に相手を説得する必要の無かった国である。 ---------------- 若い人たちの政治・国際関係のサイトでの感情的なだけの罵倒合戦を読んでいると、日本ではふつうの議論がなりたたないのかな?と思う。 ビジネスという限られた場での経験だが、欧米人の議論のやり方と日本人のそれとのちがいを、私なりに考えてみた。 極論にしてあるが、それに単純化してあるが、これはその方が私にとって書きやすいからなので、その点はある程度割引して読んでほしい。 ーーーー ◇ ーーーー 欧米人は議論の初期段階において、自分たちの意見を強く相手に示す。 千代大海やの立ち上がりのようなもので、ガチーンとぶちかますのだ。 闘牙のつっぱりのようなものかもしれない。 自分の議論を充分に理論武装して、まず攻勢にでる。 その際には相手に対する遠慮はない。 しかしだからといって、それほど相手に対する敵意があるわけでも無い。 ただ序盤戦はそういう形式なのだ。 ダメもと精神が多分にある。 日本人のように「私の意見はこうですけれど、多分間違っているかも知れないし自信もない、もし間違っているところがあればご指摘下さい・・・」なんて、心にもない、まどろっこしくて中途半端な、相手に先回りをしたようなことは決して言わないで、極めて旗幟鮮明である。 自分に不利なことは隠すし、少なくとも議論の中に入れないようにする。 この段階では、私は完全に正しい、あなたは完全に間違っている、ということになる。 もちろん、マナーというものがあるから、文字通りこの通り言い立てるわけではないが、ロジック上ではそういうことを言っている。 つまり敵味方が、白黒がはっきりした出発点だ。 屹立しているといったらいいかな? 弁証法のテーゼとアンチテーゼの世界かも知れない。 ネット上の日本人のように、いちおう議論から始まるが、本当はロジックにはほとんど興味が無くて、実質は感情的な対立だ・・・ということは少ない。 議論してもけんかをしても、あとに悪感情が残らない。 いや、本当はやはり残るのだけれど、残り方の程度が日本人とはちがうのだ。 ただし、私の経験ではケルト民族、特にアイリッシュなどは感情的で、大いに恨みを残す民族だと思う。 それが北アイルランドでの抗争の一要因だと思うのだが。 ―――― ◇ ―――― 日本人の場合はなかなか感情抜きの議論が出来ないように思う。 議論の中ではお互いへの批判を避けることが出来ないが、この自分に対する批判というものが日本人の心には深く鋭く突き刺さり、抜けないトゲのようになる。 いわゆる心が「傷ついた」状態になる。 赤い血がその傷ついた部分からドクドクとでて来る。 日本人はいままで長い歴史の中で、ずっとお互いに注意深く、温かい心遣いをしあいながら、集団の中で利害が対立することが無いという建前で生きてきた上に、所属する集団という殻に守られて来た。 だから、集団というものから外に出されて、裸にされて、個人として攻撃されることに免疫がない。 60分一本勝負金網デスマッチみたいな論戦に放り込まれると、パニックになる。 パニックになった人間は、窮鼠猫をかむで超攻撃的になるか? 逃げ出すかである。 集団の中で暮らしているかぎり、集団の規範に従っていればよかった。 数の多い方、声の大きい方に従っていればよかった。 多数意見に逆らった、少数意見や、個人としてのユニークな意見など持たない方が生きやすかった。 それに論理的な議論が必要ともされていなかったから、論理的で緻密なディベイトは不得意。 だから議論をしてみても、感情ばかりが先立って、論理性に欠けた、ザルのような論法になる。 逃げ道がいくらでもある追いつめ方をする。 だからいつまで経っても論点が定まらないイタチごっこのような議論になって、けっきょく感情での対立だけが残る。 それに日本人は、もともと議論で話がつくとは思っていないフシもある。 偏見が多いかも知れないが、おおよそ、そんな感じがする。 ―――― ◇ ―――― 欧米での議論では、そんな自己主張のバトルが相当続いて、言いたいことをほとんど言い尽くして、その内にお互いに勝負の趨勢が見えたところで妥協点、というか soft landing point 着陸点を見つけて議論を収拾することになる。 もちろん欧米人間の議論も、国益のような、結論に至ることのない難問が無いというわけではないが、ここでは比較的簡単な議論の場合として話を続ける。 こういう過程のなかでも、欧米人の中でも、それぞれに国民性がある。 攻勢の強さ・激しさにも、いろいろちがいがある。 重箱の隅をつつくように細かくて、理論的で、原則にこだわって、がんこで執拗なドイツ人。 いろんな技術を尽くして自分の利益だけを守るフランス人。 カウボーイさながらにブラーフ(脅かし)もまじえて高飛車なアメリカ人。 アラブの人達も独特だ。 特に産油国の人間が高飛車で傲慢なのは経済的に優位にあることが主因だろう。 その点、英国人はさすがに議論のやり方も洗練されて紳士的。 それに国民性が現実的なのだ。 お互いに主義主張・立場・利益が異なるのだから、自分の意見だけがすべて通るわけがないと割り切っていて、落としどころを上手く見つけようとする。 妥協はある程度当然だ・・・という認識がはっきりしている。 ―――― ◇ ―――― 日本の議論の中では、いきなりの議論より、順序というものがあると思う。 まず礼儀作法が先立つ。 それでお互いの関係をよくしてからおもむろに議論に入る。 そうしないと感情論になる可能性が高い。 すでに述べたように日本人の精神構造として対人関係に於いては傷つきやすい傾向があるがゆえに、お互いの気配りが大切なのかもしれない。 だから理屈一本で強引に相手を説得しようと言う、プロレスで言うところの「ストロング・スタイル」は不適ということになる。 ―――― ◇ ―――― 欧州で少し車を飛ばすと国境になる。 その国境の遮断機を越すともう隣国である。 朝、轟音に目を覚まして窓を開けると、もう隣国の戦車がゴウゴウと目の前を行進している。 隣国が侵攻してきて占領されてしまったのだ。 そんな歴史があの欧州では、今までえんえんと繰り返されたのだ。 そんなに身近に隣国があるのだから、率直な議論を通して周りの国々の状況を把握しておかなければいけない。 そんな議論の相手はハッキリ利害が異なる存在だ。 地続きの隣国という地政学的な位置にいるかぎり、隣国とはもっとも危険な潜在的な敵国・仮想敵国なのだから。 対話の中で相手との共通点と相違点、共存できる条件をお互いにハッキリ見つめなければいけないのだ。 感情だけの議論をしていては、自国の存亡に関わる事態になりかねない。 島国で自然の要衝である海洋に囲まれた日本は、隣国と築地で国境を分かったことのない日本は、論理的に相手を説得する必要の無かった国である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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