カテゴリ:🔴 C 【文化・歴史・宗教】
一昨日紹介した亜さんのブログに、天雷无妄(てんらいむぼう)という卦(か)について、こういう事が書いてあった。
〓 〓 〓 〓 〓 〓 連綿とめぐりめぐる自然に則すことは 余計なことを一生懸命やることではなく もしかしたら ほとんどを省くことかも知れません。 その時に最も大切なことだけが 残るかもしれない…。 そういうことを この天雷无妄の卦は説いています。 〓 〓 〓 〓 〓 〓 易経のこの卦は、禅の境地と通じるところがある。 易経の方が、禅より時代的に早いのだろうが。 あるサイトから部分的に引用させていただこう。 〓 〓 〓 〓 〓 〓 http://www21.big.or.jp/~pcs/ent/omoukoto/2003_6/zakkan_old19.htm 西洋人にとっての自我とは自我同一性の確立だが、日本人にとってはついては、悟りへの冒険は仏教での「色即是空」の「空」すなわち「無」を目指すように思えます。 日本は河合隼雄氏の影響が大きく、したがってユング派の考え方が浸透しているようです。 氏によると、氷の塊が水に浮かんでいるとすれば、水面上の氷の部分が意識の部分でこの中心が自我となるそうです。 そうして氷の水面下の部分が無意識で個人的無意識と普遍的無意識とに分かれ、意識、無意識の氷全体の中心として自己(無意識中)があるというのが、ユングによる西洋人の構造だそうです。 すなわち自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。 これは自我と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包括する。 東洋は西洋人のように自我を中心として、それを一つのまとまった意識構造を持っているのに対して、東洋は自我それだけでは一つのまとまりを持っていないようであり、実は無意識内の中心である自己へ向かう意識構造を持っていると考えられる。 ユングによると自己実現ということは、自分個人だけのことでなく他人とのつながりを有するものである。 自己は無意識に存在していて、意識化することが出来ないものである。 自我はただ、自己の働きを意識化することが出来るだけであるといっている。 ここで、自己について考えていく上で、仏教の禅宗の十牛図を見てみると、自己確立に向かっての修行の過程を10枚の絵によって、読み解くようになっています。 最後の到達点は、名誉も地位も名声も無い、ただの「おっさん」が風体かまわず世間の人に悟りへの効用を感化している図です。 すなわち修行前と第九、十図の段階を経た後の違いは、特に外見上には何も変化が見られないという様子です。 〓 〓 〓 〓 〓 〓 もう一つのサイトをリンクさせていただこう。 ここはすごい。 お坊さんらしく、完璧に解説している。 廓庵禅師 十牛図 〓 〓 〓 〓 〓 〓 さて、禅と言えば、中国禅宗の第六祖、慧能(えのう)(638~713)が、禅の悟りについてなした詩偈(しいげ)に【本来無一物(ほんらいむいちもつ)】というものがあって、、悟りや煩悩の概念に囚われた世界をきっぱりと否定し、さらには、悟り」「煩悩」ばかりか、「一物(いちもつ)も無い」と言う考え方さえ存在しない、一切の囚われを否定しつくした世界こそ、禅である・・・と言うことを説いたそうだ。 さらにさらに、【無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)】と言う言葉も吐いたとのこと。 深い~。 天雷无妄(てんらいむぼう)これは、読み方によっては、エントロピーの法則を説いていると思うのだが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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