カテゴリ:🔴 C 【文化・歴史・宗教】
■ 言語が思考を規定する 【復刻日記】 昨日の記事で、日本語のあいまいさと、それがあってこその日本文学・・・と言うことを書いた それに関連して、やはり日本語の特質について書いた過去ログを【復刻日記】としたい 一年前の日記の復刻だから、もうお読みになった方が多いだろうけれど、お許し願おう ―――― ◇ ―――― ■ 言語が思考を規定する 【復刻日記】 Tak-shonai さんが、【ぼんやりのすすめ】というブログ記事を書いている 冒頭はこうである ~~~~~~~~~ 【ぼんやりのすすめ】 昨日の "UFO の 「確認」 を巡る冒険" というエントリーに、alex さんから 「言語が思考を規定する」 とは、直接には言ってないけど、そういう意味合いのコメントをいただいた それは私も常々思うことなので、同感のレスも付けたのだが、改めて独立エントリーとして論じてみることにする alex さんのコメントは、次のようなものである 言葉というものは、国民性そのものですから、あいまいな言語を持つ日本人は、思考があいまいな国民である・・・と言ってもいいと思います まあ、日本語があいまいな言語で、それに規定されて日本人の思考もあいまいになりがちというのは、否定しないけれど、その 「あいまいさ」 故に、日本独特の 「美」 というものもあるのだということは、私は忘れないようにしたいと思う それに、あまり分析的でないが故に、論理とはまた別の、包括的な 「直観」 ともいうべき方法論が働きやすいということもあるだから、私は 「日本語のあいまい性」 については、いい面もあるし、悪い面もあると、ニュートラルな立場である そして、いい面は積極的に活用したいとも思っているそう思っていなければ、「和歌ログ」 なんていう別サイトを作って、毎日毎日和歌を詠むなんて酔狂なことはしない(後略) ~~~~~~~~~ □ 実はこの後、私(alex)は、もう一つ追加のコメントをいれた ~~~~~~~~~ 単語や構造的な面を含め、印欧語と日本語の距離は、極めて大きいそうです 逆に、日本語と朝鮮語は、構造的に近似(らしい) 印欧語、特にラテン語群・北欧語群・スラブ語群同士は、おおげさにに言えば、方言レベルのちがいです ところで、英語は、最も分析的構造を持つ言語だと思います だから、英語でしゃべると、論理的・分析的な思考に、半ば自動的になっている いいか逢えれば、脳を分析的・論理的モードにしておかないと、英語がしゃべりにくい 日本語で考えていては、英語らしい論理的な話し方が出来ない ~~~~~~~~~ ―――― ◇ ―――― ■ さて、これからが、今日の私の「言いたいこと」である もちろん私も、日本語の「あいまいさ」の美点を、承知しているつもりである 特に、日本の詩歌、なかんずく短歌や俳句など、日本語という言語の存在無くして成り立たないものだと思っている 西欧の詩の最高峰のひとつに、フランス語の詩の世界があるが、私はフランス語が出来ないので、その味わいが実感できない 小林秀雄の訳で、好きなランボーなどを読んでみたが、はたしてどれだけ原詩の内容が読み取れたか? それにフランス語は、ある人によると、あいまいな日本語と正反対で、ひとつひとつの単語が意味するところが狭義であり、精密且つ論理的な言語だという そのようなギスギスした、いや、キッチリした言語で構成された詩とは、どういうものなのか? だから、「またちょっと、フランス語を勉強してみようか?」などと思ったことがあるが、この歳でそれは無理である であれば、仏英辞書でも引きながら、ちょっと読んでみようか? という気持ちも、無くも無い ヴィエトナムのサイゴンで、フランス人のグラマー美人教師に(想い出しちゃった)、すこしフランス語を教わったことがあるから、辞書さえあれば、英訳ぐらいは出来そうなのだ その先生は私に「あなたは発音がとてもいい」とほめてくれたが、「あなたは語学の才能がある」というほめ方はしてくれなかった(涙) この先生と、以前に書いた「パリのマダム」シリーズと、「青い麦」というコレット女史の作品を思い出したので、「フランス婦人と少年」というテーマで、いつか、書いてみたい すぐ余計な話題に飛ぶが、体勢を立て直そう つまり、あいまいな所がない、キッチリと表現する言語による「詩」と、あいまいな日本語でつくられた「詩歌」は、ハッキリちがうと思うのである それに日本語は多義語だから、掛詞とか、枕詞という技法が特殊効果を生んで、日本語独特の広がりを生んでいると思う ~~~~~~~~~ 以前、私のこのブログで「俳句を英訳してみる」ということを試みてみたが、英訳の結果はなんとも無味乾燥で、説明的で、イメージの広がりが無く、単語と単語がつながらなく、クロスオーバーもしない そういう、散文的なしろものになってしまったのである (いずれこれらも【復刻日記】にしてみたい) (また手抜きができる) (笑) このごろ、米国の学校で、俳句を(もちろん英語で)作らせる授業が盛んらしいが、そうして、そこで俳句の良さが大いに喧伝されているようだが、なに、英語の俳句など、本来の俳句とは、似て非ざるものだ 俳句とは日本語が無ければなりたたないものだ・・・と、あらためて思う (ただ、英語俳句も、ふつうの英詩とはちがって、言葉の余韻が強く意識されるという俳句の特質が受け継がれているとは思う) では、短歌はどうか? と言われると、「短歌は俳句より長くて、ある程度は説明的要素があるので、英訳も何とか可能ではないか?」というぐらいである この辺は、専門の歌人である、tak-shonai さんのご意見をお聞きしたい次第である 最後に付け加えたいことだが それは【言語が人格を変える】という点である ―――― ◇ ―――― ■【言語が人格を変える】 あくまで私の個人的な現象だが、例えば □ 英語でしゃべっていると、私の人格が変わる のである ○ 英語だと 論理的になる 分析的になる 主張が強くなる 多少攻撃的になる straight to the point という、率直な話し方になる 堂々とした、背筋が伸びた態度になる 気取った態度になる ○ 反対に、日本語でふつうにしゃべると 卑屈になる (笑) おとなしい人間になる 相手の発言の直後に、すぐには反論に移らない 相手に同調しがちになる 相手にも同意を求める あいまいな表現を多用する 決して結論というものを出さずに終わる 多少は争点があっても、すぐに「どうせ世の中、そんなものですよね~」で収める あまり細かいことは追求しない 相手の明らかな間違いを指摘しない 「本当に、そうですよね~」とかならず言う 相手に好感を持たれるような話し方をする そのために、自分の意見を引っ込める お互いの共通点を必死で探す 自分は平凡な庶民だ、ということを相手にわからせて、相手に妙な嫉妬心を起こさせないようにする ―――― ◇ ―――― 今わかったが、以前、初めてネット(BBSだが)に書き始めた時、一部の人達から、強い反感を示された その時は、私も外国から帰国して間もなかったし、日本人とネット上で話し合う事ははじめてだった 多分、英語的発想・傲慢表現・キッパリ言い切り語調、が強かったのだと思う 堂々としすぎていたのだと思う これで、もし私が、英語の他の外国語が話せるようになると、私の人格はどうなるのだ?? ビリー・ミリガンになるのだろうか? (笑) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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