カテゴリ:🔴 C 【カメラ】
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カメラ沼 そもそも、カメラには様々な付属品がある。 かつて、露出計は本体と分かれていた。手動で読み取ってカメラに伝える必要があった。また手動でピントを合わせる必要があった。タフな時代であった。 最初の100年間、カメラは複雑化していったが、こうした機能をカメラ本体に取り込むためのものだった。1960年代には、露出計はカメラに内蔵され、ピントはファインダー内の距離計を使うなり、一眼レフのミラー反射像を見ながら合わせることができるようになった。 カメラは複雑化したが、この進化は必要なものであり、スナップ写真を撮るのが簡単になるものだった。 1970年代になると、露出決定は自動化するようになった。この進化は偉大であり、我々は本当に自由に撮ることができるようになった。 1980年代、オートフォーカスが登場した。素晴らしい! 完璧である。完璧な自由。もう構図を決めて、撮るだけだ。最高だ。 1980~1990年代は、カメラ発達のピークの時代であった。CANON AE-1 Programや、EOS 620、NIKON F4といったカメラは、必要なことをすべてやってくれた。我々はただ写真に集中すれば良いようになった。カメラのやることなど気にする必要がなくなったのだ。 1990年代半ばから、各メーカーは、我々に新しいカメラが欲しいと思わせるための追加機能を失ってしまった。なにも追加すべきものがなくなってしまった。日本のカメラメーカーは代わりに、カスタムファンクションなる新機能を発明した。カメラ凋落のはじまりである。 この20年間、ほとんどのカメラは、無意味なゴミ機能を追加し続けているだけである。目的は売り上げを立てるためであり、良い写真を撮るためではない。悲しいことに、この傾向は今なお続いている。新しい機能に気が散って、被写体を見ることができなくなっている。 思い出すのは1990年代の後半、友人と写真を撮りに出かけていたときのことだ。友人が言った。 「A2Eでセルフタイマーかけるにはどうやるんだっけ?」 明らかに、次に撮りたい写真のことを考えることができなくなった瞬間である。そして次の写真を撮ることすらできなくなった瞬間である。 今日のデジタルになって、私を含め、誰も、写真の撮り方を完全に理解できる人はいなくなった。もちろん撮影を中断して、30分間格闘すれば、セットアップをすることはできる。それで撮ることはできる。だが、しかしシーンが変わると、もうダメである。また30分間撮影を中断し、10個のメニューツリーの中を全部確認して、設定変更すべき項目を探し回らなければならないのだ。 機能を1つ忘れると、もうシャッターを切ることができない。今日、ある設定項目が1つ間違っているためにうまく撮れない、と嘆く人をよく見かける。これは私にもよくあることだ。人々はカメラの奴隷になってしまった。こんなバカげたことは即刻やめるべきである。 かつて、デッカい3つのリングしかカメラには設定項目がなかった。シャッター、絞り、フォーカスである。1970年代から、これらのリングをどちらに回せば良いか指示してくれるようになった。そして1980年代からこれらは自動化した。完了である。これであとは写真を撮るだけのはずだった。 では今日なぜ、すべてが自動化されたカメラにおいて、1,645もの設定メニュー、カスタムファンクションが必要なのだろうか? たった3つの設定で写真は撮れるはずなのに? 3つの項目を自動化したあとで、なぜそれらを1,645のマニュアルメニュー項目に細分化して、また1から設定しなければいけなくなったのだろうか? かつては、設定を間違っていてもシャッターを切ることはできた。今日、それすらもできなくなってしまった。カメラの求める設定に合わせないことには。 写真に集中し、より良い写真を撮るために最高の方法は、機材の数をなるべく減らし、 ● もっとも単純なカメラを使うことである。 ● カメラの機能を完璧に把握し、本能的に、とくに意識を中断することなく、すべての設定を完了できることである。 ライカの取扱説明書にはこう書いてある。 ● この説明書をよく読み、学習し、目を瞑ったままでもすべての操作をできるようにしてください、と。 これは1952年、LEICA IIIfの説明書の記載だ。それから40年間で、カメラは簡単になったはずではなかったのか? カメラの求める設定に時間を費やし、ファームウェアのアップデートに追われていて、いったいどうやって写真に集中できるというのだろう? ● 高性能、高画質、優れた色の再現性、ランニングコストの安さ、それらを犠牲にしてでも、私がフィルムカメラに戻っていったのは、これが原因なのである。 金持ちの連中がライカを使うのは、メカ性能が良くて、素晴らしいレンズが揃っているからでもある。しかしながら、シリアスな写真家たちがライカを使うのは、それとは異なる理由による。 ● ライカがシンプルだからである。必要な機能しかない。常にシャッターが切れる。 シーンが変わっても引き続き写真に集中できる。そして、ライカ以外には今日、その機能のすべてを理解できるような、シンプルなカメラは全く発売されていないのである。 私の知っているプロフェッショナルの写真家がライカを使っているのは、 ● ライカがシンプルで、壊れにくく、小さくて軽いからである。 ● 彼らが、よりライカを好むのは、Olympus XAよりシャープで高画質だから、ではない。 ライカがシンプルだからである。 同様に軽量な、NIKON FEもシンプルである。もっとシンプルかもしれない。レンズ交換のできないOlympus 35RCならばさらに良い。 よろしい、シリアスな写真家にとって、NIKON FMがライカ並みに良い。写真に専念できる。これがシンプリシティのすべてだ。 シンプルさで言えば、アイフォーンや写ルンですが最強である。 ● 交換できるレンズはない。さらに良いことに、なんにも設定できない。どう考えても写真に集中せざるをえない。なにをどう撮るか、のほかに考えることはなにもない。 ● カメラは、その存在を忘れるほどにシンプルでなければならない。ただ被写体を見つめること、決定的な瞬間を撮ること。 トップアスリートに聞いて見るが良い。ダンサー、ミュージシャン、ほかのどんなパフォーマーでも良い。日々のトレーニング、学習を欠かさない一方で、いざ事に臨むときには、テクニカルなことなど全く考えない。ただやるだけである。他のことは一切考えない。自我を忘れ、ただ、行うのみである。 彼らを偶像化し、分析し、批評する人はいる。しかしこれらの妙技は、その瞬間瞬間の思考やテクニックによるものではない。いわば洪水である。洪水に身を任せ、ことをなすのだ。だからこそ、妙技なのだ。 私がスナップに出かけるとき、テクニックのことは考えない。このサイトでもテクニックに言及し続けるつもりだが、それをあなたは吸収し、自分のものにして、 ● いざ撮る瞬間にはわざわざ考える必要がなくなっていることを期待している。 黄色い壁を見たら、なにも意識せずに、本能的に、手持ちのNIKON FEなりLEICAのシャッタースピードダイヤルを半段下げ、絞りを2/3段上げている。フレームの角をどこに合わせるかを見ていて、テクニックを意識している暇はない。 練習、学習の時間と、撮る時間は別物なのである。 ミュージシャンは演奏するときに楽器に置いた指を見たりはしない。目を瞑れば、さらに良い演奏ができる。レイ・チャールズは盲目だった。それでもキーボードで素晴らしい演奏をし、12のグラミー賞を受賞した。キーボードの仕組みにもっと詳しい人はいるかもしれないが、彼らはグラミー賞を受賞していないのである。 写真も同じである。 ● 撮るときには自由でなければならない。 ● そして日々学習していなければならない。 ● 被写体に集中しなければならない。 ● 異なる構図を試し、違う角度からも見て、写真のことを考えなければならない。 カスタムファンクションメニューの設定値のことを考えていてはダメなのである。 私はこれまでに、何百、何千の写真家に、プロアマ含め会ってきたが、ここに秘密の鍵がある。これらの人々の中で、次の二つのこと双方にあてはまった人は2人しかいない。 1.画素とカメラプロファイルの詳細、その裏の仕組みについてよく知っている 2.素晴らしい作品をコンスタントに発表している 本当の話である。何時間もフォトショップで編集する人は決して良い写真を生み出さない。一方で、素晴らしい写真をコンスタントに撮っている人はカメラの裏の仕組みについてはほとんど何も知らない。 真の写真家は、写真に関心があってカメラに関心がない。双方に詳しい人間は2人しか見たことがない。これは侮辱でもなんでもなくて、写真に打ち込んでいる人間は、レンズコーティングのことを全く気にしない。 Ansel Adamsはこの中に入っていない。彼とは仕事をしたことがないから。だが彼と会うことになれば、彼は3人目ということになるだろう。彼はいつも科学の知識を作品に利用はしているものの、それはたまたまであり、彼の作品は彼の用いるツールによるものではなく、ビジョンによるものなのだ、と主張している。 私はあなたのことはよく知らない。だがどちらかといえば、私はあなたより写真の撮り方を知っているほうだと思う。カメラの仕組みを知っているというよりは。 カメラの様々な設定に迷わされずに撮り続けるためには、一つのカメラ、一つのレンズに固執するのが良い。カメラは、あなたの想像力の拡張機にとどまらず、あなたの身体の一部となり、視覚の一部となる。決して別々の道具ではないのだ。 あなたがカメラのことを考えているとき、あなたは写真のことを考えていない。 あなたが写真のことを考えていないとき、写真は最低の出来になる。 シンプルなカメラはあなたにカメラのことでなく、写真のことを考えさせる。 カメラがあなたに奉仕すべきである。あなたがカメラの奴隷、写畜になってはいけない。 カメラはあなたの感性の外側にあり、撮ろうとする写真とは無関係でなければならない。あなたの想像するイメージは被写体から沸いて出てこなくてはならない。そのイメージにカメラが影響を及ぼすようならば、それはやめなければいけない。 あなたの撮影からカメラを遠ざけるには、シンプルなカメラを使うしかない。 提案 私がこれまでに撮ってきた写真の中で良い出来だと思うものはすべて、カメラ1台、レンズ1本で撮影したときのものだ。こうすることで私は写真に集中できた。カメラにではなく。 慣れない機械を使うべきでない。新しいカメラのことばかり考えて、なにを撮っているのかを忘れてしまってはいけない。 ● シンプルなカメラ、1本の単焦点ではじめるべきだ。2本ではなく、1本だ。 私の言う意味が分からないならば、写ルンですを使うべき。デジタルスキャンするのは簡単である。 ヒント:店員やテレビ・雑誌・ネットの広告があなたに、なにかよく分からない新しい機能を説明してきたとしたら、その意味があなたに意味不明であれば、それは無視すべきである。 見ることを学び、撮ることを学ぶべきである。 素晴らしい作品を撮ることができるようになったら、そのときに初めて、新しいカメラのことを考えれば良い。 しかし、もしも素晴らしい偉大な写真を撮る方法を学んだら、おそらく、それ以上新しいカメラやレンズが必要だとは考えなくなるだろう。 私がそのミスに陥ったら、誰か私に注意して欲しい。 今、私は写真のワークショップで教えている。そして私を含め参加者の誰1人として、カメラの持つ全機能の1%も理解していない。なぜなら、残りの99%は、撮影に際して気を散らすだけのゴミだからである。ニコ爺の私ですら、NIKON D300でブラケット撮影する方法をパッと思い出せない。カメラは今日、本当にバカげたことになってしまった。 Keep it simple. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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