|
カテゴリ:百人一首
百人一首 86番歌 嘆けとて 月やはものを 思はする かこちがほなる わが涙かな なけけとて つきやはものを おもはする かこちかほなる わかなみたかな 嘆けといって私に月が物思いをさせるのだろうか? いや、そうではないでしょう。にもかかわらず、まるで月のせいのように、こぼれる私の涙です。 作者: 西行法師(さいぎょうほうし) 西行。俗名は、佐藤義清(さとうのりきよ) 1118~1190 平安後期の歌人。北面の武士として鳥羽院に仕えた後に23歳の時に家庭と職を捨てて出家。京都・嵯峨のあたりに庵をかまえ西行と号しました。日本各地を行脚しながら歌を詠み漂泊の歌人として知られます。新古今集には最多の94首が入撰。家集『山家集』。また彼の一生は「西行物語」に詳しく語られています。 月と花を好んで歌に詠み、恋歌が多いことで知られた 西行法師です。 漂泊の歌人だけあって自由闊達な心で詠んだ歌が多く、現代人にも相通ずるものが感じられます。 よく知られた歌に 願わくば 花の下にて春死なむ その如月の望月(もちづき)のころ 時代が変わってもたいへん人気のある大歌人です。 「月前の恋」という題を与えられ詠んだ歌でした。月を眺めていると、やおら自然に涙が流れる。 恋の悩みであるのに、まるで月が嘆けと言っているようです。月のせいにして、やおら流れる涙です。 昔から、月は物思いにふけらせ、悲しみにくれさせてしまう何かがあるようです。日本ではお月見という行事がある一方で、月を見ることは忌むべきことだとの考え方もありました。 西行は諸国を旅した人ですが、陸奥を旅した時に詠んだ歌に あはれいかに 草葉の露の こぼるらん 秋風立ちぬ 宮城野の原 宮城野の原は、宮城県仙台市の仙台駅の東側にあたります。宮城野の原に行くのには奥羽街道を歩いて北に向かったことだろう。ということは我が家の近所を歩いたことが想定されます。こうしてみると俄然、西行法師も身近に感じますね。 それからこの時代には旅籠と呼ばれる宿はあったのでしょうね。弁当は何を持参したのだろうか。水筒は竹筒を利用したのだろうかなど想像したらきりがないですね。それにしても当時の人は健脚だったのですね。 ※ 今日5月27日は百人一首の日、藤原定家が100首選定した日です。 藤原定家の撰による「小倉百人一首」がまとまったのが、文暦2年 (1235年)の5月27日。ということで『百人一首の日 』と言うようです。 1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まであり、柿本人麻呂、山部赤人、阿倍仲麻呂、小野小町、在原業平、紀貫之、紫式部、清少納言、西行法師らが名を連ねています。 百首の歌のうち、恋の歌が43首、次いで秋の歌が17首、合わせて60首を占めます。 編集者である藤原定家の好みで選ばれたわけですから定家の好みがよく現れていると言ってよいでしょう。 但し、この時、藤原定家は74歳だったとのこと。 百人一首は、鎌倉時代に編集されましたが、当時、人々にはまったく知られなかったそうです。 14世紀の後半(室町時代の中期)になって、連歌師・宗祗(そうぎ)によって研究・紹介されて、歌よみの間でようやく読まれるようになったとのことです。 藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだとされる小倉百人一首。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる私撰和歌集である。その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、定家が作成した色紙である。蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、天皇7名、親王1名、公卿28名(うち摂政関白4名、征夷大将軍1名)、下級貴族28名、僧侶12名、詳細不明3名。 また女性の内訳は、天皇1名、内親王1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 100首はいずれも『古今和歌集』『新古今和歌集』などの勅撰和歌集に収載される短歌から選ばれている。 春の歌 6首 夏の歌 4首 秋の歌16首 冬の歌 6首 旅の歌 4首 月の歌13首 桜の歌 5首 梅の歌 1首 心変りの歌10首 恋の歌43首 ・片思いの歌 14首 ・情熱恋の歌 10首 ・忍ぶ恋の歌 9首 ・その他 10首 男歌人 79人 女歌人 21人 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[百人一首] カテゴリの最新記事
|