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カテゴリ:考え方のものさし
この世の中は、不公平にできている。 だが「不公平だ」と叫んだところで、後ろ指さされるのが関の山だ。 不公平だろうが、自分の立ち位置を確認できたら、それからどうしたいかだ。 貧乏なところに生まれたら、あとは駆け上りたければ、駆け上がるだけだ。 裕福な家に生まれた釈迦は、出家して王子の座を離れて城の外に出た例えのように たとえはた目にはとても裕福な家に生まれたとしても本人にとっては満たされないものがあるというものなのです。 その場にいるとその場があたりまえになってしまうし ありがたみもわからなくなってしまいます。 何不自由ない暮らしであっても、幸せ感、充実感を感じなかったら空しいものです。 美味しいものでも毎日ずっと食べていたら飽きてしまうものです。 断食してお腹をすかせば、なんでもないものでも、とても美味しく感じるというものです。 感謝できる心になるということは、ありがたみが身に染みる心になれることです。 無になったときに初めてわかるのです。 なにもかも失ったときに初めてわかるのです。 感謝できるようになって初めて見えてくるというものです。 ありがたい(有難い)とは、よく言ったものです。 難があってこそ気が付く入り口です。 「我に艱難辛苦を与えたまえ」と求めた人がいた。 それは艱難辛苦を乗り越えられたときに一段と成長できた喜びを得ることができるわけです。 のりこえた人だけが味わえる喜びです。 辛い、困った、どうしたらいいのかという状態から、幸いにするには、どうやったらいいのかを工夫したらいいのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014/06/12 01:54:41 PM
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